2012年5月17日木曜日

ひとよみにっき


シゲさん

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愛について。

ちょっと、自分のやってる掲示板とか整理してたら、今年の三月に書いてるネタが、こっちの日記向きだなぁと思って、転載しようと思いました。

基本は
●愛とは成長しようとする意志である。
というメッセージです。

で、
●成長するというのは「痛み」を引き受けることである。
ということです。

で、
●自分の弱点・間違いを自覚するのが、一番痛いが、それをこそやるのが、人間の生きている価値である。
ということですね。

ということで転載。

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ちゅうことで、ちょっと最近思ったことを書く。
それは「愛」とは何かということで、この定義って実はあまりキチンとはされていないのだ。
だってLoveでしょ? 外国語だもの。

で、私が敬愛するウォイティツ(アダルトチルドレンという概念の提唱者)は、「愛とは向上すること」と言ってるのですね。

ある意味正しくて、この「向上」さえ頭に入れて生きてれば、まぁ間違いはない。(向上には「責任を引き受ける=痛みを引き受ける」という意味を含む。というか向上するというのは、そういうことだ。)

でもねぇ。
ウォイティツがアメリカ人女性で尊敬できる人であるなら、日本人男性で尊敬できる副島隆彦の「愛」の定義が、これまた好きなんだなぁ。それは「愛とは一緒にいて楽しいことである」というもの。

この定義ってすごい好き。素晴らしい。人間関係における愛に限定してるところがいい。

いっしょに居て楽しいかどうかなんですよ。やっぱり。まずそれ� �基本。
楽しくないのは、愛がないからなんよね。

で。

実は少なくとも私は「成長しない人」とは、一緒にいたいと思わないんですよね。
つまらない。
飽きてしまう。
10年一日同じことしか言わない。そういうのはダメだ。

「あなた、せっかく生きているのに、毎日何を学んできたんだよ。」とか思ってしまう。

真面目に成長を続けていくと、自分のあやまちとか間違いはどんどん微調整しながら、いろいろな意味で一歩上を目指すから、考え方ってどんどん変わるんだよね。

痛みを引き受ければ引き受けるほど、そうなる。
あんまり簡単な理由づけとか信用せずに、ちゃんと物事の一つ一つを確かめながら生きていると、「そうだったのか。私は何も知りませんでした。バカでした。」と思うこ� ��が多くて、そういうことを重ねて、重ねて生きてくると、本当にいつのまにか考え方自体がぐいっと大きく変わっていたりするのですよ。

で、そういう積み重ねを経て築き上げてきた考え方と同じように考え方が変わってきた人とかとは、話をするとすごく面白い。あるいは逆でもいいけど。

でも、10年前と、言ってることが寸分違わず同じ、というような人を見ると、もうまったく話をする気にもなれない。へなへなーってなってしまう。

面白くないんだよなー。つまらない。
それはつまりは「愛がなくなった」ってことなんだ。
しょうがないんだよな多分これはって思うわけです。
しょうがない。袂を分かつしかないんだよねー。
ほんとに。

愛がないのに、いっしょにいてるのは楽しくないんだ。そ れはやめたほうがいいのだ。

で、現実問題をじっくり考えてみると、10年考え方も変わらない関係なんて、成長がまったくないわけだから、それはやっぱり楽しくないってことなんだと思うのですよ。

少なくとも僕は面白くない。「変わらないこと」に価値を見いだす人もいてるだろうから、それはそれでいいんだろうけど、僕は面白くない。楽しくない。

なので「愛せない」ってことになる。
さようならっていうことなんだよね。

この数年で、そういう意味で「さよなら」って思う人は増えた。悲しい感じもするけど、成長したくないっていうのも、その人の生き方なんだから、それはそれで認めないとしょうがない。僕はそんなの絶対イヤだけども。

なんか、そういうことをつくづく、しみじみと感じるの� ��ありますよ。

ふむ〜。

えいご漬け

タイトルは、ニンテンドーDSのソフトの名前ですが、でもって「えいご漬け」も、やることはやってるのですが、そうではなくて、最近は英語の「練習」ばっかりやってるなぁ、という話。

英語は「音読だ!」というのが、先に紹介した「英語上達完全マップ」に載っていたので、去年の暮れからずっと音読を続けております。

中学校の2年生の教科書と、3年生の教科書は、全ページ100回ずつの音読が終わりました。

これだけで、約半年ですね。

いまは高校の教科書にステップアップしてます。中学の教科書は音読してても内容がつまらなくて、そこが苦しかったのだけれど、高校の教科書ともなると表現も豊かになってくるので、読んでて飽きないし、楽しいで� ��。

とにかく、毎日、1セクション。まぁ教科書ですから、一頁分くらいの量ですが、これを30回音読します。

忙しい時など、どうしても間が空いてしまいますが、それでも出来る限りは続ける。

30回音読を毎日やって、教科書一冊分が終わったら、また同じ教科書の最初に戻って、今度は25回音読くらいで毎日やります。で、これをどんどん続けて、各セクション100回になったら「あがり」です。

まぁ100回というのは、「最低限」でしかないんですけどね。とりあえず最低限のことはしておこうかと。

ちゅうことで、ニンテンドーDSのソフト「えいご漬け」も買ってやってますが、これもなかなか面白い。
ようは音声を聞いて英文を書くというディクテーションをソフト化しただけのソフトなんですが、やりだす� ��けっこう面白い。

最初は日本語表示とか文字数が■で表示されている「ヒント」付きでやってたんだけど、それじゃ全然意味がないので、ヒントは全部「なし」にしてやっております。
画面に文字は全然出ない。音声のみ。

んー、ニンテンドーDSって3D表示の機能とかもあるんだけどなぁ。そういう機能は全く使っておりませんな。

こうして今日の成績をつけるわけですが、S,AAA,AA,A,B,C,D,E,F,ドクロと10段階の評価が出るうちのAAAを最近はずっとキープし続けております。

一番最初は「ピザ」のスペルとかわからなくて、Fとかのレベルだったんだけどねぇ。ほんとスペルに弱い私。

Sも一度は出たけど、なかなか難しいですな。聞き取れてるけどスペルで間違ってるってのが多い。「Aかな?Eかな?」 とかやっていて時間が取られて成績が下がるのであります。

音読に30分から1時間、英語漬けに30分から1時間が取られるので、毎日1時間から1時間半は英語の「練習」をやっております。

本当は毎日2時間くらいづつの時間を確保できるといいんだけどねー。なかなかそれは難しい。本も読まねばなりませんしなぁ。最近は朝の散歩とかもやってるから時間が全然ない。

ゲームもやりたいんだけど、やってる時間が全然ないですな。面白そうなのがドンドン出てきてるというのに。
でもまぁ、やっぱり、「自分を伸ばすRPG」という発想になってしまうと、ゲームはやってられなくなっちゃうんだよねぇ。
人生の残り時間考えると、もっといろいろ楽しみたいって思うから。人生、ほんと、いろんな事ができると思う。可能 性は無限大ですわ。うむ。

ということで、えいご漬けの日々であるというお話でした。

世の中のこと、いろいろ。

別に、買って読んだわけではないのだけれど、日垣隆という人のことが最近は気になっている。
書いている本はいろいろあって、深みはないのだけれど、ちゃんといろいろ実検証していたり、膨大な量の資料を読んでいたりするので、それなりにおもしろい。
おもしろいのだが、いまいち本を買うというところまで行かないのはなんでかなぁ。まぁ同世代だからかもしれない。

で、この人の本で「いい加減にしろよ(笑)」という本があって、この本の中で日垣さんが、今大人気の細木数子にインタビューをしている。

細木数子に関しては、陰陽道の流れを汲む占いをやっておきながら� �大殺界が三年と、「陰と陽」に割り切れない仕組みになっているところが、なんともはやウソ臭くて好きになれないのだが、このインタビューでは、その占いの裏側をキチンと見せてくれているところが面白かった。

と言っても立ち読みです。半分くらい読んで「ま、こんなもんでいいか」と思ってやめたんですが。

知っている人は知っていますが、細木数子という人は、安岡正篤の妻だった人です。

老いた安岡正篤をたぶらかしたのだ、とかなんとか悪い事を言う人もいるが、テレビで細木の言う事を良く聞いていると、ようは安岡正篤の受け売りなのである。

安岡正篤(やすおか まさひろ)なんて言っても、いまや知らない人の方が多いのかも知れないけれど、平成という元号を発案した人であり、昭和天皇が敗戦の時にラジオで流した玉音放送の元原稿作成に関わった人、という説明をしておけば、まぁ概略はわかるでしょう。

東洋文化や日本文化の研究家で、陽明学者でもあります。
陽明学というのは儒教の日本版ですな。でも陽明学は支配する側の理論だし、庶民は道教、算命占術やら高島暦とかのそういう「うらない」をこそ望むものですが、そっちの方の造詣も深い人だったわけです。

で、ちょいと考えれば分かるけれど、占いというのは別に未来予測が主たる目的なのではないのですな。将来への不安を「解消」することが目的なわけです。で、その確たる安心感を与える倫理観とか価値観� �キチンと相談者に伝えられるかどうかがカナメなわけです。

安岡正篤氏は当然ながら、占いもやったろうけど、この相手を安心させる価値観の部分の知識が半端ではなかったはずなんですね。

で、細木は、この安岡氏に手取り足取り、占術から何から基本的な日本文化を構築している骨組みの部分を教授してもらっているわけです。

それが、この日垣さんの本にははっきりと書いてあって「そうかぁ、そうなのかぁ」と納得するわけであります。

「手取り足取り教えていただきました」とはっきり細木は言ってるからねぇ。

そら、人気出るよな。日本人の一番昔から受けついできた文化の部分の論理構築をキチンと受けついでる訳だから。おばぁちゃんから教えられた価値観ともずれない。安心できる。だから叱� ��れてもみんな納得してしまうわけで。(あの程度の「叱り」に震え上がってしまったり、反発心を感じるのは自己評価が低い人だと思う。もっと自分を愛そう。)

まぁ安岡正篤と比べれば、細木なんざ小物もいいところで、陰陽のことわりを適当に解釈して大殺界を三年としているところなんかは、単に商売がうまいだけというか、まぁ実用に応じた展開を心得た人間なんだろうな、というだけの話なんですが。

そういう目で見ていると細木のおばさんは、実に可愛らしく見えてくるから不思議だ。
世間からとやかく言われてるけど、それでも、安岡正篤とは夫婦だったのだし、安岡正篤の思想体系の十分の一も受けついではいないのかも知れないけれど、それでも偉大だった人の考えを、なんとか生き残らせようとハッタリ� �かましている(で、それで稼いでいる)可愛いおばさんって感じだ。

結局、世の中というのは、人と人のつながりが世界を作っていて、その親分子分関係とか、教えを与えた人間と受けた人間との関係で見ていかないと、本当のところはよく分からないものである。

(いや、つながりが分かっていても、そう簡単には読めないんだけど、それでも大きな流れくらいは見える。)

そういう意味で言えば、最近話題の日銀総裁の福井氏バッシングも、簡単にはその本質は見えない。

村上ファンドにつながってたからうんぬんと世間では騒いでいるけれど、それはあくまで「一般大衆用の建前」であって、本当はそういう問題ではない。

そこには「政治と金融人との対決」という、ものすごく深くて複雑なテーマが横たわって いるのだ。

中央銀行総裁というのは、一応法律上は日銀法30条において「みなし国家公務員規定」に掛かっており、公務員扱いなのだそうだ。

で、公務員であり通貨発行権も握っている総裁が、特定ファンドに個人資金を委託していて良いのか? という問題が今回の争点である。「自分が得するように通貨発行量をさじ加減したんとちがうんけ、おめーはよー。」という話だ。

これが、実はとても黒い。
みなさまあまり意識しておられないが日銀は「株式会社」なのである。日銀の場合は、政府が55%出資する規定があるから公的機関と言われているが、でも逆に言うなら45%の一般株主がいるということです。

で、45%だと議決権がないから経営に関係はないと言うことになってるんだけど、ここの裏の情報が一つ入ると話はとたんにややっこしくなる。

ちゅうのは、「世界の中央銀行はその多くが株式会社であり、共通の資金源である超巨大金融ネットワークにすべて組み込まれている可能性がある」という話なのである。

さぁ大変だ。
世界の中央銀行� �同じ資本家が握っているとしたら、地球規模の通貨発行量が、特定の金融家の一存でどうとでも変更できるってことになる。

インフレもデフレも自由自在であります。
だっていまは金本位制じゃないから。
印刷で通貨量はどうにでもなる。
ありていに言ってしまえば、アメリカの軍事力が担保になって印刷物経済というのが成立しているのである。

だから福井くんは日本におけるお札の発行管理人というだけの話なのだ、という事なのである。

この手の金融人は、たいていタックスヘイブン、南の島の小さな独立国家の「無税の銀行」にお金を預けてます。小さな国はそれでバランスを取ってるわけですが、そういうタックスヘイブンにプールされてるお金は、地球全体の通貨量の半分以上になっているという話 もあります。

そこまで膨大な金があると、どういう事をするかというと、大国と大国のトップを金で買います。小泉君も買われた口です。そうでなけりゃ、あんな弱小派閥にしかいなかった小泉君が数年で最大派閥になるわけもありませんわな。

で、どこの国のトップも金で買い、大臣クラスとか、ある程度の決定権のある人間を洗脳したりなんだかんだで手なづけて、で、最終的には戦争も計画的に起こします。

たとえばイラクの攻撃をするためには兵站線のことを考えたら、通常の基地配備では無理なので、周辺国に何年も前から基地移動を頼んでます。三年四年計画でないと無理なんですな。
そらそうだって思う。

政治も民主主義もへったくれもありません。金で人を動かして戦争を起こすのです。
なん� �か? というと、それは公共事業だからです。街を潰すのに爆弾を使えば武器商人が儲かります。アメリカはもともと「防衛」が「国鉄」みたいなもんだから、これはどうしてもそうなる。
で、その街が潰れた後には、ありとあらゆる産業が入って行けます。ゼロから全てを作り替えるのだから実に巨大な利権です。

なので、基本的に戦争を起こす場所は、まぁどこだって良いわけです。ただ、どうせなら、戦争の後に自分たちが考える「自由な資本主義経済」が導入できれば良いというだけの話なので、標的になるところは、まだそういう仕組みが整ってないところが多いのかもしれない。

で、結局は我々日本人も、その昔、そういう具合に、世界を牛耳る人間たちにあやつられて戦争をおっぱじめたような役回りをさせられてし まったのです。

このあたりは、もうちゃんと証拠があって、笑ってしまうくらいですが、真珠湾攻撃のあった当日、アメリカのルーズベルト大統領をはじめ、政府の主要な人間たちはホワイトハウスに婦人連れで集まってお茶会を開いているんですな。どんなお茶会であるかというと、「日本軍の真珠湾攻撃に関する無線の傍受会」だったのであります。

「おお、バカがダマされて攻撃しにきよるぞ。アホやなーこいつら。」てなもんです。

真珠湾をドカーンと攻撃してくれれば、世論を味方につけて、日本を攻撃できるわけですな。
だから喜びまくっていたわけです。「おお、これで金融界からの要望に応えられる!」てなもんなわけです。

そんなもん、飛んで火にいる夏の虫でんがな! 攻撃なんかしたらアカンがな! てなもんですが、多分おそらく日本の軍部のトップクラスも、当時金で買われてたのだろうと思われますな。もうどうしようもない。

なんでこういうことがわかるかと言うと、アメリカには公的文書を何十年か経ったあとには公開しなくてはならない、という法律があって、やっと十年ほど前から、アメリカ国内のジャーナリズム精神あふれるジャーナリストが、「当時の資料を公開せよ」と国家に対して迫ったからなのであります。

別に日本人が頑張って明らかにしたわけじゃないよ。ってことですね。

アメリカってのは嫌な国だけど、こういう具合にフェアなところもちゃんとある。だからそういう部分はちゃんと信じないとダメだなぁって思うのだ。

単に「アメリカなんか嫌いだ」とか言うのは本当にバカ。そう いう奴が「真珠湾攻撃やむなし派」になってしまうのですよ。まぁたいてい世の中そうなっている。
だって、戦争したい側は、わざと怒らせるんだもん。あるていど、わざと「理不尽なこと」を見せつけておいて、国民感情を怒りの方向に向かわせておくのですね。

北朝鮮の拉致問題も怪しいよなぁ。日本人と北朝鮮の間に溝を作るのが目的という気すらする。
小泉君の参拝問題も同じなんじゃないのか? ボーダレスな世界金融人から「日本と中国の間で戦争の火種を、いまから仕込んでおいてね。」ということなのかも知れない。だって小泉君、あまりにかたくなだもんな。

911の時も「ああ、バカだなぁ、乗せられて攻撃した奴がいてるんだなぁ。先走りしてバカが」と思った。これは、上記のアメリカの情報公開法による真珠湾の話を聞いていたから、真っ先に思ったことでした。
で、それを見た現地の一般人が「アラーの思し召しだ!」とかやってる映像が流された。あれもやらせだったのかも知れないけど、ともかく溝を深くするための演出計画があって、それに乗せられてるだけなのである。
悪い奴はいつもほくそえんで、夫婦でお茶会をしているのだ。だまされる側は「アメリカ嫌い」とか怒ってる一般大衆である。

で、福井君に関してに話は戻るけれども、福井君は実は日本がバブルになった時、景気動向を調整する部長かなにかの、一番重要なポジションにあった人で、まさにバブルを演出した人間と言えるのですよ。

で、バブルがはじけた後にゼロ金利に誘導する役目の実動部隊にいたのも福井君なんだそうです。

日本企業をバブルで借金漬けにし、そのあと株価をガタガタに下げさせた後、外資がドーンと買いに入る。バルクセールの下準備をしていたという可能性があるわけですよ。
まさに日本人を裏切った悪辣非道な奴だ、というウワサがある。

ウワサだけどね。

まだまだ裏はいろいろあると思うので、(裏には裏があるのがこの世界なので、あんまり裏の話の暴きに関わりたくはないけど、まぁ概略ということで� ��)このくらいにしておきたいのですが、ようは、こういう概略の事を知るためには、いろいろな知識を幅広く身につけておくことが大事だよなぁってことです。

真珠湾攻撃をさせられてしまったり、メディアに乗せられて雰囲気で「嫌米」とかやってても意味ない。
どんどん勉強する以外に他に方法はないわけです。

で、最初の日垣さんの話に戻るんだけど、この人、ものすごい量の本を読んでるのよなぁ。ホントに、そこは感心する。
細木数子ともちゃんと対談して内実をえぐってるし。ちょっと注目株なのです。いやまぁ言ってることは浅いので、まだ一冊も本は買ってないけど。

でも、立ち読み程度でも、このくらいはわかるって話でありました。

勉強しよう。勉強。

<自殺対策基本法>衆院本� �議で可決、成立

やっとだ。
やっと「自殺対策基本法」が成立した。

(引用開始)----------------------------------------------
自殺対策基本法:法案、参院委で可決
 国と自治体、事業主、国民に自殺対策の責務を課した「自殺対策基本法」案が8日、参院内閣委員会で、超党派の議員立法として提出され、可決された。同法案は9日の参院本会議で可決後、衆院に送られ、今国会で成立の見通し。自殺対策の法制化を巡っては、東京のNPO法人が中心になり、請願の署名活動を展開。わずか1カ月半で目標の3倍以上の10万1055人分の署名が集まるなど大きな反響を呼び、自殺問題の深刻さを改めて浮き彫りにした。

 同法案は自殺の防止と自殺者の親族のケアが目的。自殺対策を社会的な取り組みとして実施することを義務づけて� �る。【玉木達也】

毎日新聞 2006年6月8日 東京夕刊
(引用終わり)------------------------------------------

これが超党派の議員立法で成立したという点、請願の署名活動が、わずか1カ月半で目標の3倍以上集まったという点などが、この問題の真の深刻さを表している。

言い争っている場合ではないのだ。

そういう事だ。

しかし、この法案の「自殺者が出た後の家族のケア」は、まぁなんとかなっても、肝心の「自殺の予防」というものが、どこまでできるのか、真剣に悩んでしまう。

前々から書いてるけど、これは「社会の変化」について行けてない人が、それだけたくさんいてるという事なのだ。
大問題なのだ。そう簡単なことではないのだ。

欧米の「個人主義」というものは、いやおうなく我らの生活 に入り込んでくる。嫌でもだ。

いくら実感がなくても、それは忍び寄ってくる。

で、その一番矛盾の大きい部分がパソコンの世界で、まさにWindows95が登場した前後から自殺者が一気に増えているのだ。

この社会の本質的な変化に気づけない人は、欧米文化のかたまりでしかないパソコンの世界を「異物」と気づけず、「新しい便利な道具」としか見ることができない。

だから、たとえばパソコンを買ったら買った人全員に付いてくる「個人責任」を、たんなる企業のお題目としか思えないわけだ。

世の中の流れとか、欧米の個人主義の成り立ちとか、パソコンのデータに関する個人責任のポジションとかを、キチンと勉強してない人には、本来ストレスにしかならない存在なのだ。

それが「パソコン」なので� ��る。

それは、いくら日本人が日本人特有の「家電製品感覚」でパソコンを捉えたところで、世界規模で動いているビジネスが「パソコンはキャリアアップの武器」という「武器」感覚でしか捉えていないのだからどうしたってズレるのだ。

「パソコン」は武器なのである。
だから個人責任で使うのが当たり前なのだ。
他人を出し抜いて、自分だけ儲けたいと思ってる奴のために売られている商品なのだ。それが全世界的トレンドなのだ。

「5万円パソコン」とかが存在するというのは、ようするに、そういう「パソコンは武器だよ」という市場が全世界に広がっているから、世界市場という大規模が成立しているから安くできるという事の証明なのだ。

それを「家電製品」と同じようにとらえていたら、そら「� �つ病」にもなってしまう。

この善良なる日本民族の精神性を、食うか食われるかが当たり前で、「死んだらそいつの実力不足」でチョンにされてしまうような欧米文化に何の説明も解説も勉強もなくさらしていたら、そら自殺者も出る。

そういうことでしかない。

一神教への理解度が低い日本人に、最小単位としての「個人」なんてものは、そう簡単にはわからない。キチンと一神教の基礎から「理屈」として学習して、「ああ、そうか、欧米の奴らはそんな風に考えるのかぁ」と相手の文化を客体化して捉えられるだけの見識と知識がなければ、そらストレスだらけなのだ。

勉強しなけりゃ、ストレスだらけになるのは、当たり前なのである。

だって、自分たちの根っからの文化の延長線上に生まれたものでは� ��いから。
欧米の一神教の「神と個人の契約」概念から生まれたものだから。

で、そういう日本人にはとうてい「実感」できないものを、「家電製品と変わらんやろ」と勝手な思いこみで使って、それで段々ストレスがたまってきて、結果として自殺とか「うつ病」とか、あるいは不平不満を社会や家族にぶつけるだけのしょーもない人間とかが出てくるのである。

この辺の基本の基本の根本を、キチンとみんなが学習しない限り、この自殺者の増加は食い止められないと僕は思っているのだけれど、果たして、この法案ではそこまで踏み込んで語っているのか。
まだ詳しく調べたわけではないけれど、それでも超党派の議員立法という点が実にうれしい。
これこそが「自分たちの身を守るための、本当の意味での防衛 意識」であり、同胞の命を思いやる、真の愛国心なのだ。

こういう形以外の動きは、たいてい「政治的なトリック」である。本当に必要な法案は、国民の側から、立場を越えて出てくるのだ。それこそがホンモノなのだ。

ともあれ、もう何年も前からずーーーーっと言ってたことが、多少なりとも形になって僕は少しホッとしました。

で、世の中の動きというものが見えてない人は、本当に勉強して欲しいと思う。
日本の歴史と欧米の歴史を比較して学習するなどしない限り、この手のフラストレーションは、まず解消されません。

だいたい「自由」って何かわかってます? 英語で言えば、フリーダムとリバティがあるけど、その違いって何だかわかる?
わからない人の方が普通ですよ。

じゃ、それで我々はキチンと自由について考えられるのか? って言ったら、それは無理、なんだよ。無理なんだ、無理。
そこから理解しないとダメなんだ。
で、そういう根本がわかってないから、「生きてる実感」がわけわからなくなって、うつになったり自殺したり、児童虐待したりするわけよ。

デモクラシーと言えば、「民主主義」とみんな思ってるけど、デモクラシーって「主義」みたいなイデオロギーじゃないんだからね。福沢諭吉が「民衆交際」と訳したように、「いろんな考え方をつつき合わせましょう」というのがデモクラシーなんだ。

そういう根本の根本もわかってないから、「民主主義とは多数決の事だ」とか勘違いする人間が増えて、それでイライラが募る。「数の論理」なんて下品なものがデカイ顔してまかり通る。アホか。そんなものにデカい顔をさせた� ��ダメなんだよ。それはデモクラシーじゃないんだ。

でも、そういう事もわかってないから、「みんなが同じことをすることが民主主義的幸せだ」とか思いこんで、大ヒット映画や大ヒットゲームにぶら下がる。

そんなもん幸せでもなんでもなくて、システムに心を食い荒らされてるだけなのに。

自分の幸せなら、「●●をしている時が私はとても幸せなのです」と、キチンと誰にでも(自分を含む全ての人間に対して)明快な説明ができなければならない。それが「個人」ということだ。

自分の幸せ観をキチンと実感・コントロールできもしなくて幸せになれるわけもない。それが出来ていないのは、自分の幸せとは何か? という「個人」の喜びについて考えていないからだ。

で、欧米的幸福観というものは、そういう「個人」の価値観をこそベースにしている。

そんなもの、「個人」があいまいな日本人には、よくわからないものなんだ。

でも、どうせ世の中は、そういう「個人」という単位に収束されざるを得ないんだ。

だから、身の回りの人との関係を豊かにし、家族と確かなコミュニケーションを保ち、児童虐待もせずに生きていくには、面倒でも(本当に心底面倒くさいのだけれど)勉強するしかないのだ。

この勉強もしない人間はどんどん不幸になるだけなのだ。

昔の日本なら、それでも良かった。
でも、もう無理だ。
小泉君がグシャグシャにしてしまった社会制度は、5年や10年、弱肉強食で心のゆとりもない社� ��に、この日本を作り替えてしまうだろう。もう待ったなしなのだ。

だから勉強していて、心ある人は、この自殺対策法の必要性を正しく認識して、そして超党派で議員立法で法律を作ったのだ。
アメリカの直接支配を受けてしまっている官僚たちの作文ではなく、血を流して生きている日本人そのものから「せめて最低限のセーフティーネット」が生まれてくるのだ。

状況は、そこまで悪化しているってことです。弱肉強食の世界にどんどん作り替えられて行ってるのに、どこにも「日本人による、日本人のための弱者救済策」が作られて来なかったってことです。

そういう意味で、超党派・議員立法での、この法律成案は、せめてもの救いだと思う。
本当に良かった。やっとここまできたか、という気分だ。


にきびアフリカ系アメリカ人のケア皮膚

こういう本質問題もわからず、ただグローバル化の流れの中で、適当なコマーシャリズムに流されて、自分の本質を見失った人がどんどん増えていることに、私は心を痛める。

みんなはやく気付いてくれ。

そして、ちょっとでいいから勉強しよう。

自分の実感とは異なる現実が、嫌でも「日本より広い枠組み」として存在しているって事を勉強・認識しないと、人生が辛いだけだ。
つくづくそう思う。

そこは勉強するしかないんだよ。
欧米の文化は日本人には「実感」することは絶対できないのだから。学習して知識を頼りに身につける以外に方法はない。

一切ない。

まったくない。

どこにもない。

勉強せずに安心立命を得られる状況は、もうすでに、この国にはないのである。

それが現実なのだ。

きびしいことだけれど、それが現実だと知るしかないのである。

現実を直視する心に、本当の理想が生まれる。

しばらく、こっちに書いてませんでしたが、また「mixi」からのコピペです。やっぱりmixiが好きだなぁ僕は。
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今日、ちょっと仕事でいろいろ会社案内とかのパンフレットを読んでいたら、表題の名言が目に入りました。

「現実を直視する心に、本当の理想が生まれる。」
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ

ゲーテですよゲーテ。「ファウスト」の。

なんかね、この言葉を目にして僕はハッとさせられたのです。

この数年、自分の内面をほじくりかえす作業を延々やってきてまして、で、幸せになるにはどうしたらいいんだ、理想を求めるというのはどういうことなのか? などなど、いろいろ考えてたんです。

で、理想をイメージすることの大切さとともに、現実直視することも重要で、僕はそれを、それなりにセットで考えてはいたんです。

「理想をイメージするにも、現実は直視せざるを得ないし。うーム」って感じだったわけですが。

でも、その「理想」と「現実」の確かな関係性を、このドイツの大作家の言葉で教えられたという気がしたわけですね。

そうか、現実直視があってはじめて、本当の理想をイメージできるのだよな、ってことなんですね。

これ、パッと聞くとなんでもないことを書いてるようですけど、僕はけっこうすごい事を書いてると思うのです。

だって「現実直視」というのは、人にもよるし、状況にもよりますが、たいていの場合「打ちひしがれざるを得ない不利な状況を、現実として受け入れる」ことを表すからです。

つまり、普通、たいていの人は、現実直視しちゃうと、そこでやる気を失って「ダメだこりゃ。あきらめよう。」となるのが普通だから、です。

でも、この格言は違うんですよね。現実を直視して、リスクやデメリットを、甘んじて受け入れて、打ちひしがれて、もうどうしようもないとなった、その後に出てくる理想こそがホンモノなんだ、としているわけです。

どんだけ「強い心」やねん! とつっこみたくなるんですが、でも、言わんとしていることの内容はそういうことなんですよねー。

全然可能性がない、あるいは可能性があってもごくわずかだ、というシビアな現実があって、それでもやっぱり理想を求めて努力しなければならないし、それこそが本当の理想なんだよって言ってる格言ですわね。

ああ、すごい。

で、逆に言うなら自分をとりまく現実=リスクを直視せずに心に描いた「理想」など、「妄想」と紙一重なんだなぁってことですね。ちゅうか「妄想」そのままか。

なんかねぇ、うまく自分の頭の中の考え方が整理できた気がしたんですよ。

現実をちゃんと直視する。イヤなところを見ないとか、そういう逃げを打たない。

でも、その気落ちするような現実に取り込まれてしまって、やる気をなくしたりもしない。そのハンデの大きい中から、最上の「理想」を紡ぎ出し、その方向へ向かうよう、自分をしつける。

なんかね、そういうことが「ああ、そういう手順か!」という感じで分かってきた気がするわけです。

いいなぁ、この言葉。さすが、大文豪は違うなぁ。

つくづくそう思います。

サーカスの象

ふと感じたことがあるので、ちょろりと書きます。

mixiの方で、さる脱アダルトチルドレンされた方からアクセスをいただきまして。
で、「そりゃ良かった。この世の天国ですね。」と返事したら、「脱AC。本当に天国ですよね!びっくりしました。」とお返事いただきました。

うむうむ。そうですそうです。って感じ。

この「気付いて幸せ!」ってことをどう言えばいいのか。

サーカスの象は細いロープで杭につながれてますが、あれは象の力を持ってすれば、すぐに引っこ抜ける程度のものなんだそうです。

でも、子象の時に鎖で杭につながれていて、さんざん抵抗して外せないという体験をしてるから、大きくなっても、もう抵抗する意志そのも� ��がなくなってしまってるんだそうで。

細くて頼りない単なるロープにつながれてしまっている、巨像。その力は獅子よりも強いと言うのに。

ああ、この話、まさにアダルトチルドレンの話よなぁって思う。

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あと、それとよく似た話になるのかも知れないけれど、最近よく考えるのが

●苦手の克服は難しい。でも成し遂げた時の達成感は一番大きい。

ということですね。
苦手にチャレンジせねばって思います。

最近思うのは「怒り」のコントロールだなぁ。できてないんですよ、これが。私は。
ちゃんとやらなきゃ。

黙ったり、激怒したりのどっちも間違いで、「正しく冷静に主張する」って事をやらなきゃいけない。

怒りのコントロールが下手なので、つい「トラブルは避 けよう」とか考えてしまうけど、それは抑圧でしかないわけで。

「激怒」は過剰反応でしかないのだけれど、黙って抑圧するのもまた、過剰反応なわけで。
正しい、適正なボリュームコントロールができないといけないなぁって思う。

不満や主張したいことというのはあるのだから、それを冷静に伝えられるようにする。そういう態度を身につけないとなぁと思います。

●逆境は永遠には続かない。しかし逆境に屈してしまうと、それは永遠に続く。

これも、言えてるのよなぁ。
逆境、苦痛、苦手。

そういうものこそ、積極的にチャレンジしていかなきゃねぇ。
そう思います。

ま、そんなことで。

英語上達完全マップ―初級からTOEIC900点レベルまでの効果的勉強法

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I SBN:4860641027 単行本 森沢 洋介 ベレ出版 2005/10 ¥1,470
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えー、今年の1月20日にも一度紹介してるんですが、

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また、再度紹介したくなったので書きます。

良い本は何度紹介しても良いと思うので。

というのも、私、この本を、最近ちょこちょこ読み直しというか、本のタイトルの通りに「マップ」のように自分の学習進度の確認のためにパラパラ開いているからなのです。

そう、この本は、まさにタイトルが示す通りに、「英語上達完全マップ」そのものなのです。
そこが実に素晴らしい。

英語を勉強するにあたって、どんな勉強をどんな段階でどのくらいやればいいのかを、キチンと「処方箋」として提示してくれているのです。それも、著者は英語の個人レッスンの教師の方で、たとえば音読なら一回に何度繰り返せば良いかという回数まで検証した上で「マップ」として提示してくれているのです。

ここまでていねいな学習書を、他に読んだことがない。
この本の内容はそうとうにレベルが高いです。

実は書籍の内容の80%はインターネットで公開されております。

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なので、上記のサイトを読めば、まぁほとんど、この本に書かれている勉強法の内容はわかってしまいます。

が、書籍版のほうには、実際にこの方の提唱する方法で学習した学習者の成長過程が著者によるレポート風に三人分紹介されていて、それが意外に役立つのと、

●手元に置いて地図のように繰り返し読む

という使い方を、本当に勉強しだすと、どうしてもしたくなるはずなので、書籍の購入をお勧めしたいのですね。

「音読パッケージ」という学習法だけを僕は三ヶ月毎日やってみただけですが、それでも二ヶ月半ほどしたら、「ええっと、これをやり終えたら、次は何をしなくちゃいけないのかな」とかは思うようになるわけですから。

実際僕は、英語の「学習法」に関する書籍は、そ� �こそ山のように読んでいて、いままでに100冊をくだらない数の本を読んできてます。

しかし、いざ書いてある通りに学習をしようとすると、どれもこれも「言葉足らず」なんですね。どうやって勉強したらいいのかの、こまかい注意書きがない。

かと思えば、具体的なのはいいけれど、いきなり例文と音声データのCDだけ付いてきて「あとは勝手にやれ」とかのタイプの本も多いわけです。

そうではなくて、そういう教材を、どういう手順でどのくらいの回数繰り返して、次のステップに進む時の目安はどんなものでとか、そういうことが書いてないと実質勉強するのは無理なんですね。

TOEICで、600点なり、700点なり、900点なりを目指す。そこへたどり着くための方法・手順・目安がちゃんと書かれてないと、ただ迷う� ��けなんですね。

でも、この本には、その手順や目安がキチンと示されています。これは画期的なことです。
音読がいい、音読がいいと言われても、その音読が5回でいいのか、500回必要なのかそこがわからないわけですから。初心者は。

そこが書いてあるかどうかは、目的地への道のりが言葉でだけ伝えられているか地図になってビジュアライズされているかくらいに違います。

この本にはちゃんと「最低百回で、それを何度かに分けて読むサイクル法が良いです。そしてサイクルの一回目は最低30回。あとは徐々に減らしていきます。」という基準値が「マップ」として書かれてあるんですね。ここまで具体的に「道順」を示している書籍は、他になかったと思います。

また、TOEICの点数という客観的な基準値をも とに、何点まではこの学習をしてください、何点まではこういう事をしましょうという、おおまかなマッピングがなされているのです。
これが実に素晴らしい。

この本は、去年の10月の終わりに出ておりまして、ほぼ毎日のように本屋に出かけては何か良い新刊を探している私の目に止まり、その時点から読み始めて2週間ほどで練習を開始、そこから飽きずに音読練習を続けて三月の終わりにTOEICを受けて、自分自身で伸びを実感したという、そういう流れになってます。
まだ結果は届いてないですが、自分の内面的に、少なくとも50点やそこいらは伸びているという実感があります。(だって聞き取れた量が圧倒的に違ったんだもん。)

多分、ここからふたたびこの本の評価が上がって、再度平積みになってきたりするんじ� ��ないかなぁ。実際に試して見た人の評価が出てくるから。この本は、まず間違いなく英語学習の定番書になります。ロングセラーになると思う。

僕なども、仕事をしながらの学習なので、どうしても一日に1時間前後の時間しか取れない訳ですが、それでも、そのわずかしかない時間だからこそ「役立つ」「実際に成績が伸びる」「機能する」学習法をチョイスすることが重要なわけです。

この本は、そのもっとも重要な点がキチンと押さえられているというのが素晴らしいわけです。
ここまで機能的に書かれてあると「もう10分なり20分なり、なんとか時間をひねり出して、勉強のスピードを上げたいなぁ」という気持ちも湧いてくるんですね。
課題が明示されているから、必要な時間見積りがそれなりに立てられるので す。

この本の場合はTOEICを基準値に採用して、その最低得点者(300点あたり)から、990点までの「マッピング」がされている。だから900点台に到達するまで、たぶんずっと参考にし続けることになると思うのですね。

まさに「マップ」です。

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学習においては、この「マップ」、全体観というものが、ものすごく重要なんです。

自分が北上しているつもりなのに、実際には西に向かってひたすら歩いていたとか、そういうことをしていると、永遠に望みの地点に到着できないわけです。

でも「マップ」、つまり全体観がキチンとあると、自分のモノの見方に歪みがないかどうかなどを確認していくことができるんですね。

簡単に言うと無駄がなくなるってことでもあります。
なので「全体観」はす ごく重要なんです。

で、たとえば自分の人生の設計を行うには、人生の「全体観」が必要で、これを身につけるには歴史の勉強なんかが役に立ちます。

すでに歴史の流れというものは確定していますから、その流れの中で、誰がどんな判断をして、どう生きたかという話は、自分が生きる際の良い目安になります。

中年のおっちゃんたちが、やたらと司馬遼太郎の歴史小説を読んだりするのも、そういう全体マップを手に入れる作業なんですね。
まぁ司馬遼太郎の著作は、あくまでフィクションなので、マップとしては頼りないものではあるけれど、それでも何も読まずにいるよりは、はるかにマシでしょう。

しかし、この「全体マップを手に入れる」という事をせずに、自分の考えでなんとかしようとしてる人が� ��いですわね。

それって無駄だと思うんだよなぁ。
悪くすると堂々巡りにしかならないから。

東西南北が分ってない段階で、地図も持たずに現実をうろちょろしてても、そりゃ道に迷うだけでしょって思う。

でも、司馬遼太郎も読んでないような人の方が、世の中には多いのかも知れませんけどねぇ。

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というくらいに「全体観」の把握は大切なので、実は「日本だけの見方」よりも「地球全体での大きなトレンド」をしっかり見据えるということがけっこう重要なことなんですよね。日本は地球の一部であって地域=リージョンにしかすぎないわけだから。

その意味でも英語の学習は大事だろうと、僕は思ってます。
あと西洋文化の歴史的流れの把握。
これが僕はまだまだできてないんだけ ど、まぁコツコツやるしかないしね。

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ともあれ、まずは「全体像」、マップの把握。
それが大事なのです。

ということで、英語の学習に関しては、この本は、とってもお勧めです。
関連商品:英語上達完全マップ―初級からTOEIC900点レベルまでの効果的勉強法

機能不全家族―「親」になりきれない親たち

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ISBN:4062099306 単行本 西尾 和美 講談社 1999/10 ¥1,680

近く結婚して子供も作りたいと思っているので、親になるに際して学ぶべきことをいろいろ勉強している。

あるサイトを見ると「育児は育自だ」と言っている方がいて、見事だ!と思った。

自分の成長を忘れた時、人間はバカになる。そう思う。

いろいろ読んだり考えたりしたけど、ようは、

●自分が成長しよう

としていれば、子供も成長するんですね。
それを「私は大人だから、成長したり勉強したり、学習したりする必要はない」という、バカ丸出しの発想のままでいるから、すべてがおかしくなってしまう。

人間ね、生きてる限り勉強ですよ。
そんなもの。
当然じゃん。
何言ってるの。
「二十歳すぎたら大人」と法律ではなってるけど、それは他に目安がないからそう言っ� �るだけで、年齢的に大人でも、勉強してない奴をそれなりに勉強してる人間から見たら「バカじゃん、こいつ」でしかないわなぁ。「子供やね、これでは。」で終わり。

多少なりとも勉強している人間というのは、「俺、バカだよな。」と自覚したからこそ勉強しているわけで、そういう人間から見れば「俺、バカだよな」という自覚すらできてない人間など、評価の対象にすらならない。

そういうこと。

で、いまの世の中、子供が子供を育てているのだから始末が悪い。

で、この本は、タイトルこそ「機能不全家族」となっているが、内容的には「機能不全な家族から機能する家族へ変わるにはどうしたらいいか」という基本的な考え方の書かれている本だ。成長するためのステップが書かれている。

僕的には� ��ダルトチルドレンとかいろいろ調べたので、分っていることが多く、新味のない内容なんだけれど、「自分のやっていることが機能していない機能不全なのだ」とすら気づけていない、「自分が成長することの必要性」にすら気づけていない、一般の家庭の「親だと思いこんでる子供みたいなアホな親」には大きく役立つのかもしれない。

(あんまりキツイ書き方してないし。この手の人たちは本当に優しいよねぇ。そんなもの、「お前が無知なだけじゃアホ」で良いと僕は思うのだが、そうは書かない。ちゃんと手順を追って、分りやすく、納得できるように書いている。人格的に素晴らしいよなぁ。頭が下がる。私も見習わねばとは思う。なかなか真似はできないのだけども。)

ともあれ、納得しにくいところは、すぐに具体� ��なケーススタディになって説明されるし、それらが数多く載っているので「自分がダメ親であるということをわかってない親」にも、何が問題なのかが、わかりやすいだろう。

タイトルが良くないので地味な感じがしてしまうが、まぁ、まず自分が「機能してない親なのだ」と気づかないと親業はスタートしないだろうなとは思うので、こんなタイトルでもしかたないかなぁとは思う。

しかし、実際には、けっこう良く売れている本であるらしく文庫版も出ているし、大阪の書店でも、棚には一冊しか入っていないが、なくなったらすぐに補充されるポジションにある本である。ようするに数冊は在庫がされているってことだ。それだけ良く出ているって事です。

実際内容は、「自分が親として機能していない」人が「機� �する」ようになるための考え方や方法論ばかりだし、読みやすくて説得力もあると思う。

でもなぁ、僕としては「そんなこと当然やろ」と思うことが多くてたいくつでした。
なので、読了まで時間がすごくかかった。
でもまぁ、良い本ではあるでしょう。

それより、「親業」に関して本の最後に紹介が載っていて、それをインターネットで検索して驚いたよ。

親業訓練協会なんてものがあるんだね。
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このホームページ見て感心した。

自分が成長しようともしない、ダメ親は、即刻このページを見て、他の「成長しよう」としている親の方々と知り合って、自分がいかに「成長しようとしていないダメ親」であるかを知るべきですな。

ダメ親ってのは、あるんやなぁってこと。
まずそこを知らないとダメなので、それでこの本のタイトルは「機能不全家族」になってるんだよなぁってつくづく思う。

「親業」もまた、学ばないと身に付かない「ノウハウ」のひとつなんだよ。自転車の乗り方も学ばないと身に付かないし、車の運転も教習所で習わないと身に付かないのといっしょ。

で、世間一般の親は、教習所ではなく、いきなり無知なまま一般車道で運転を開始してるようなものなんだなぁ。考え� ��ら無茶苦茶だよねぇ。
「親業」に関しては、高校あたりで正規の授業として教えてもいいくらいだと思うわ、私は。ほんとに。

ということで、まぁ、いろいろ参考にはなります。
すでに親になってしまってる人も読んでください。
僕みたいに「アホ!」とか叱り飛ばさない、優しい口調なので読みやすいはずです。

(この、「アホ!」と叱りとばされてスネるところが、まさにダメ親がダメ親である真の証拠なんだけど、まぁそれは言わないでおこう。ここでスネる親は、本当にダメだと思う。)
関連商品:機能不全家族―「親」になりきれない親たち

TOEIC受けて来ました。

mixiのほうには書いたのですが、こっちにも転載しておきたくなったので、一部、加筆・修正して載せておきます。
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この日曜日はTOEICのテストでした。
受験するのは、二回目。去年の夏に受けて、この春です。

去年は、リスニングにしても、リーディングにしても、とにかくスピードが全然足りないってのがよく分かりまして。
単語とかでわからないものとかほとんどないんだけど、とにかく時間が全然追いつかない。

リスニングは、小難しい単語は聞き取りやすいわけですが、すごく基本的な単語の弱く発音している音とか、連接、脱落、変化などしている音の聞き取りが全然できなくて、お手上げでした。

いやまぁテストのナレーションのスピードとかは、普通のスピードというか、どっちかというと、脱落・省略の少ない、ゆったりとしたスピードの設問読み上げなんですけど、こっちに理解能力がないので、全然追いつかないという状態だったわけです。

が、しかし。

今回は、けっこう追いついた。
いやー自分でもうれしくなってしまいましたね。
この半年の成果が反映されてる。

とくに音読。

去年の12月に入る前くらいから、本格的に中学の英語教科書の音読を続けてたのですが、これがやっぱり圧倒的に効果的だったように思いますね。

TOEIC受験したことがある人ならわかると思いますが、例の写真だけが問題用紙に出されて、そこに音声説明が四つ付いて「どの説明がもっともふさわしいですか。」というアレ。

アレがねぇ。前はもう、全然わかんなかったのですよ。五問に一問くらいボヤーッと聞き取れる程度だった。

でも、今回は八割がた聞き取れたんですねー。
いやー、うれしい!!

英語やってて、ここまで「伸び」を実感できたのは、はじめてなので、とってもうれしいです。

音読やったら、こんなに違うもんなの〜?
びっくりーー!!!

テストそのものは、多分けっこうポカミスとかひっかけ問題にひっかけられたりとかしたと思うので、さして点数は伸びてるとは思わないんですが、この「伸びてる!」という実感があることが、すごく大事なんですね。やる気がでるから。

音読は効果高いなー。ほんと。

まぁあれです、中学校の英語教科書って、文型的にはモレ・ヌケとかないだろうし、すごく良いのだと思うのですが、いかんせん、内容がつまらない点が大欠点なんですけど、まぁそれでも、これだけ効果あったら十分だわ。

点数はどうでもいいです。
私はもう大変感激しました。
もっといろいろ頑張ろうっと。

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以上がmixiで書いたこと。

こっちでは、これに加えて「苦手を克服すると、すごく安心」って一言を付け加えたい。

苦手なことを、どう理由をつけようと、ほったらかしにすると「不安」しか生まれないのですね。

で、その不安もほったらかしにすると、他者攻撃しか生まれないのです。

僕が知ってる限りで「こらひどいなー」と思ったのがTOEICを、英語の勉強もせずに受験して、それで、おそらくは聞き取りとか全然できなかったんだと思うんだけど、自分の実力の無さを深く実感するとかいう、当たり前の感想も述べずに、いきなり「なんだあのTOEICの試験官は。バイトとして学びも何もない仕組みだ!」とか文句言った人。

あのなー、まず「わっ、俺、全然聞き取れなかったよ。」とかの 、当たり前の、ありのままの自分を受け入れるってことをやれよ。

って思ったわけで。

いやまぁ、いきなりなんの予備知識もなしに受験すりゃ、そりゃショック受けるわさ。
でも、それで試験官のバイト制のことに話をずらしても、何の発展性も意味もないじゃん。
単なる時間の無駄だ。

まず、うそいつわりのない、自分の能力値そのものを、ちゃんと自覚することだよなぁ。

で、その「ありのままの自分」を受け入れるところからしか「学習」は始まらないのだ。

でも、異文化である英語とかに、いきなりぶちあたると、そういう「ショック症状」が出ちゃう人も出てくるんだなぁと。

そういうことを強く思います。

でもねぇ、苦手を克服すると、すごい自信になるよ。
で、そのためには「 ありのままの自分」を正しく認識するのが、まず第一歩なんだよ。
テストってのは、そういうための「気づきの機会」なんだから、そういう利用の仕方をしないと、それこそ損だよ。ほんと。

って言いたいわけです。

人生は「安心」して生きるのが、大目標であって、そのためには、自分の「苦手」を、いくら心が痛くても直視して、それを修正することで乗り越え、自信をつけ、ずっと続く「安心」をその場で得る、ってのが基本ですわ。

これを「バイト制度がうんたら」と言って「ありのままの出来てない自分」の直視・受け入れもせずにいたら、それを無意識下に抑圧することにしかならない。

結局、テストを受けたことで無意識領域で「ああダメだ」という感情が根強く残って、妙なひん曲がったプライド� ��か、そんなものに頼るしかなくなっちゃう。よけい不安が増長されて、安心立命が得られないってことにしかならないんですな。

何もわざわざテスト受けて、不安を膨らませる必要はない。
ありのままの自分を受け入れて、そのままの自分で行くか、あるいはちゃんと勉強するかを決めればいい。それだけのことなのです。

「いくら心が痛くても、ありのままの自分の間違いやダメなところは、ちゃんと直視するしかなかろうが」と、そういう人には指摘するんだけど、そういうことを言うと「心に痛みを感じさせようとしているあなたは、私の心をガンガンと殴る暴力人間だ」とか言われるのですよ。

まいるよなぁ。
その「ありのままの自分を認める痛み」だけは、自分で引き受けるしかないよ。

他の誰も、 その痛みだけは、かぶってくれないよ。

で、最初はちょっと痛いんだけど、直視さえすれば、道はいくらでもあるんだ。
大事なのは直視。
自分自身を直視する力。
それこそが「自分を大切にする」ってことなんだけどねぇ。

うむー。
ま、そういうことが言いたかった。

まぁね、私も46にもなって、いまごろTOEIC受験でもないもんだとも思うんだけどねぇ。でも、こうして「伸びた実感」があると、やっぱりすごいうれしいのよなぁ。
これこそ生きる喜びでしょう。

5年計画で、なんとか900点台まで持っていきたいと思ってるんだけど、さて、どうなりますか。
なんとか実現させたいですね。

TOEIC受けて、最近よく思うのは、「英語身につけるなんて無理〜」と、よく思うんだけど、でもちゃんと� ��につけてしゃべってる日本人もちゃんといてるもんなーってこと。

やれてる人がいてるんだからさ、そういう人の言うことを良く聞いて、真似していくことだよ、やっぱそれは。
ほんとにそれだけのことだと思いますです。

ま、そんなことで。

「そうび」のコマンドは最初から持っている。

また、続きになるのですが。

ロープレゲームで、「ぶきをそうびする」を理解してないと何事もうまくいかなくて、イライラするばかりなのは、アダルトチルドレンであることに気付かないのと同じだ、と書きました。

もうひとつ似ていることは、「人生の始めの段階でセットされている」ということです。

「そうびする」というコマンド自体は最初から用意されているんですね。主人公が、もともと持 っている機能であり、個人の特性と言い換えてもいい。

ところが、この最初から持っているものを、全然使わずにゲームを進めて、それで「うまくいかない」と怒っているっていうのが、ほんと、よくあるんです。

ロープレゲームが初めてで、その仕組みがわからなくて、それで「わからなくてもなんとかなるようになってるだろ」と突き進んでしまうって人が意外に多いのです。

いやー、「そうび」はわかってないとダメだよ、やっぱり。

ってことにしかならないんですけどね。

僕なんか、まさにこの「そうびする」を知らないままに40過ぎまで過ごしてしまったような人間ですから。

機能させるためには、「そうび」しないとダメで、でも、その「そうび」という機能自体が、実は自分が最初から持って� �るもので、なおかつそれが機能していないのは、自分のことをわかっていない自分がいて、その「わかってない自分」を、「わからなくてもなんとかなるようになってるだろ」と勝手に解釈して突き進んでいるだけなのだってことですね。

「わかろう」としなければ、けっして「わかる」ことはない。

という、だいじなことがわかってない。
で、「わかろう」とさえすれば、もともと持っているものなのだから、それはもう、すぐに機能しはじめるんですね。、

でも、人生の一番最初、ゲームでいうなら、旅が始まる前。
その最初で親との関わりで「そうび」という機能の使い方の確認を教えられずに育つと、その「そうび」コマンドを使わないままに生きてしまうんですねぇ。

実は親も「そうび」をわからな� ��ままに生きてたから、なんだけど。

そりゃ、あなた、わかってない人が子供に教えてやることはできません。無い袖は振れないって奴です。


摂食障害に関する事実とバレーボール

なのでアダルトチルドレンの問題は世代間連鎖してしまうんです。

でも、この世代間連鎖は止めるのもまた簡単なわけです。ようは自分の心の中のリソースを総点検すればいいだけのことですから。

多少、手間も時間もかかるし、それに気付くためには、いままで自分を支えてきた「間違った信念」を全部書き換えないといけないことも出てきますが(昨日書いたみたいに「街のやつらの言うことなんて信用できない」から「話を良く聞いて役立てていこう」に大転換するってことです。)、まぁおおむね気づきさえすれば、正しく機能するんです。

だって人間、もともとそういう機能を持ってるんだもの。
ただたまたま、子供の頃に、キチ ンと教えられずにいて、それでうまくいかなくなった時に「世間は信用できない」とか、そういう無理矢理な合理化を自分の頭の中に詰め込むことばっかりやってきてしまった、にすぎないんだし。

自分の内面のリソースをちゃんと総点検する。
人によったら、それが機能するのだ、ということを確信できるところまで「試用」するのに、数年を要するかも知れないけれど、それでも気付かないよりは、はるかにマシです。

ほんと、気付いて欲しいって思うね。

我ながら言い得て妙。

昨日、「アダルトチルドレンと気づけていないことは、RPGの『ぶきをそうび』を知らないことみたいなもの」と書きましたが、これ、自分の実感として、ものすごーーーーーく、言い得て妙だよなぁと思いましたです。

「� ��き」は「そうび」しないと、全然機能を発揮しないんですよね。RPG(ロールプレイングゲーム)においては。

「ぶき」だけでなく「ぼうぐ」とかもそうです。RPGでは「そうびする」ということはとても重要な概念です。

「そうび」しないで敵と戦うと、あっという間に主人公は死にます。このあたりアダルトチルドレンの傷つきやすさとそっくりです。

また、「そうびする」ということを知らずにロールプレイングゲームをやっていると、ゲームに登場する登場人物が、非常に苛酷なことを言っているように感じます。

いわく「あの山の向こうに老師がいるが、途中で化け物が出る。でも、ホニャララの剣を持っていれば大丈夫だよ。」てなことです。

ふつうは「ホニャララの剣」を装備していくから、出てくる化� ��物をバッタバッタと倒せるわけですが、「そうび」がわかってないと、結局素手のままですからな。どんどこ死ぬばっかりなわけですよ。

持っていてもダメなんだ。「そうび」しないと。

でも、「そうびする」のは当たり前だから、街の住人やヒントをくれる登場人物は、そんなことは言わない。「もっていれば大丈夫」って言うだけ。で、「そうび」せずに「持って行く」だけやって「うまくいかない!」って怒る。

「なんだよ、世の中ウソばっかりじゃないか」って怒る。

で、回りの言うことが全部信用できないってことになってしまう。

まさに自分がアダルトチルドレンと気付いてない状態のアダルトチルドレンがこれ。ほんとにこれ。

世の中が悪いんじゃなくて、自分が「大事なこと」に気付いて� �いってことこそが問題なのよ。

だから、気付くだけで人生が大転回するんだけどねぇ。

でも、それがわかってないから、すべての事柄を、自分勝手な理屈づけで、無理矢理意味づけして、「自分の納得」を作るしかなくなるわけです。

で、世間の言う「良いこと」「親切」というのが、「かっこつけ」とか、「甘え」とかに感じられるし、「そういういいかげんなものなのだ、世の中は」と勝手に理由づけして、それで何も信用せず、より不幸になる、とかやってるわけです。

ああ、もったいない。人生の無駄だ。

勉強すれば、より良い状況になる、とかも、あくまで「お題目」にしか感じられないし、「個人の責任」というようなことも「契約書の上だけのかっこつけ」というようにしか思えない。
(このあ� ��り、先の法とは何かという項目で書いたように、法そのものがキチンと機能してないのが日本なので、致し方ない面もあるにはあるんですが。)

ほんとにね、自分がアダルトチルドレンであることに気付いてない人と、RPGにおいて「ぶきをそうび」する必要に気付いてない人というのは、状況としてそっくりだと思います。

そらもう、世間全部、社会全部が気に入らないとかになってしまう。回りみんなが「異世界の人」に思えてしまうでしょうね。

なので「家族」にだけ頼るとか、子供だけが命とかになっちゃうんだけど。

ところが。

これが「ぶきをそうび」=「アダルトチルドレンであると自覚できる」ができるようになると、人生は一転するんですよ。

それはねぇ、本当に一転すると言っていい。
� �れはねぇ、本当に「ぶきをそうび」の意味がわかったのと同じくらい、環境から考え方から生き方から、幸せ感、生きる喜び、楽しみ、までまで、全部、一切合切が変わってしまう。

ロープレゲームの面白さの本質がやっとわかる。

つまり、「人生の面白さの本質がやっとわかる。」ということなのだ。

そのくらいインパクトのあることなのよ。アダルトチルドレンと気付くか気付かないかは。

ほんとに。

だから、そりゃ絶対、気付いた方がトクなのよ。
もう絶対ですわ。
ほんとに天と地ほどの違いだもの。

うん。
ほんとにそう思う。

いちばんおもしろいRPG。

世界で一番おもしろいRPGは、なんと言っても、現実の自分自身を成長させる「現実」という名のRPGではないのか?

っ� ��思う。

ほんと、「勉強すること」とかの経験値アップ作業は、確実に人生を豊かにするし、世の中、意外にも「やったらやっただけ」幸せは得られるものなのだ。

まぁもちろん、それがうまくいかない場合も、ないことはない。

どういう時にうまくいかないか、というと、自分がアダルトチルドレンなどで「現実の認識の仕方」自体が狂っている場合である。

そういう場合は、たいていうまくいかない。
なにもやっても不満や不安ばかりが増えるとかする。

だから、「自分がアダルトチルドレンであると気付く」ということは重要なのだ。

世界が180度変わって見える。

全然違う世界なのである。

「片付けられない病」というのがあるのだが、これは、自分の部屋が汚くてどうしようもないのに� ��ずっとそのままになっている病気。

で、これがどうして起こるのかというと、「部屋が機能してないほど乱雑になっている」ということを、その部屋の主が自覚できていない、というのがほとんどなのであります。

よくいるんだよな。足の踏み場もない部屋に、ゴミと一緒に暮らしてる人。

あれは「認知」がおかしくなってる。
正しく機能している部屋の快適さが実感できてないわけです。
快適がわからんので、「不快」なままでなんとも思わないわけで。

うまれてこのかた、散らかった部屋にしか住んだことない人間は、まず片付いた部屋の「快適さ」を知らなければならないわけです。

そのためには、自分の部屋が不快なくらいに散らかっているということに気づけないといけないんだけどね。

� ��も「足の踏み場もないじゃん!」と指摘しても「いや、別に生活に支障は来してないよ」と言われたら「さよか」と投げるしかないわけでねぇ。

経験値上げた方がいいと思うけどなぁ。

で、自覚するためには、よその部屋を見に行くことが必要で、それが「勉強」なわけですな。

「勉強」しない奴は、だからダメ。

で、RPGと一緒で、経験値上げというのは、コツコツ続けていると、ある日「パッパパッパパーン」とファンファーレが響いて、突然にレベルアップがあるんだよね。
ものすごく快適に感じたり「あっ!!!そうだったのか!!」と気付くことができたりする。

それはね、同じ一冊の本の文章の、同じ一節を読んでも、感じ取れる意味あいの深さが違う、とかなわけだ。
ずっとコツコツ続けて� �ると、ある一節を読んだ時に「ああああぁっ!そそそ、そうだったのか!」と思うわけで。

そういう意味では、私は「アダルトチルドレン」関連の書籍では、そういう「気付き」は大きかったわねぇ。
ものすごく大きかった。
メガトン級だった。

でもなぁ、自分の問題点を、自分でしっかりと受け止めようとしない奴は、そういう気付きもできないだろうねぇ。

「お前、部屋汚いぞ」と言われた時に、せめて「そうなんやろか?汚いんやろか?」と思わない限り、部屋の汚さには気付かないんだよね。

絶対無理だよ、それは。

で、ものすごく、とてつもなく、とんでもなく、おそろしく、極端なくらいにひどく、片付いてない部屋の主ほど、確実に「別に汚くないよ」って言うんだよね。

「部屋の汚� �なんて程度問題だろ」とか思って。

絶対そうなんだよなぁ。
注意して、すぐに気付ける人は、即、学習をはじめて、数年でまともな部屋で暮らし始める。
人によったら二三日かもしれない。

でも、気付こうとしない人は「程度問題だろ」と言って、腐ったラーメンがこびりついたカップが転がっている畳で、ゴミをかきわけて、布団も敷かずに寝るとかするんだよなぁ。

程度にもほどがあるってもんだ。

とにかく。

状況はどうあれ、「程度」は上に向かってあげていった方が良いのだし、それを「やりはじめる」ということこそが、この世を「いちばんおもしろいRPG」にする、賢いやり方なのだ。

で、もう一つ言うと、経験値上げとか、RPGでやってたことって、実は現実でもけっこう通用するのよな� �。

「秘密の通り道への抜け道を知るためには、山の向こうの隠居に会って、この世の秘密を聞いてこなければならない」とかさ。

ほんと。現実ってRPGそっくりなんだよ。

なんと言っても、いちばん面白いRPGは、「現実」なのだ。
世界って、想像以上に幅広く誰もに開かれていて、その素晴らしさを享受するのは、ほんとに単純に、当人が「得たい!」と思うかどうかだけなんだよね。ほんとに。

このことには、ほんと、多くの人に気付いてほしいです。心底願うよ。

でもなぁ「認知」が狂ってると、たとえば「部屋が片付いてるほうが気持ちいいだろうが」と言われて、部屋がとっちらかってるのはそのままにして、パジャマだけ洗うとか、たまったゴミの上っかわだけ掃除するとかだけ、部分だけ試してみ� �、それで「何も変わらない」とか「そんなことしても意味ない」とか言うのよ。

違うって。根本的に、180度間違ってるんだよ。部屋全部汚いんだから、全部片付けろってことだよ。

でも、それには気付きたくないんだよなぁ、人間って。だって全部変えるのって大変だと思うから。

でも、全部変えないとダメです。
そうしないと気持ちよくなりません。

アダルトチルドレンであることに気付くってのは、そういうようなことなんだよね。

その「気付き」がないのなら、まぁ「快適に暮らす」も「経験値があがる」も「レベルアップ」も絶対にないのよね。

気付けないというのは、RPGで言うと、「ぶきは、そうびしないと、こうげきりょくがあがりません」という注意書きを読んだか読んでないかに匹敵す� ��。

気付けてない人は、武器の装備もしてない人なわけで、こりゃどうしようもないのだ。
「ぶきをそうびする」くらい覚えてよって思うのよなぁ。ほんとに。

最近思うこと。

基本的に、病んでいる人には近づかないことだよなぁって思う。

まだ、気付いてたらいいんだ。
それはなんとかなるから。
そうなんよなぁ。
気付いてれば、なんとかなるんだよなぁ。

でも、問題は病んでることに気付かない人。

これはもう、基本的に、近づかないようにするしかないって思う。

いくら問題点を指摘しても、「気付きたくない」のなら仕方ないわけで。しょうがないよなぁ。

気付いたらラクで、快適で、幸せな生活が待ってるのに。

なんであんなに「気付かないでおこう」とするの� ��って思う。

だいたい気付いてない人は、いつも不機嫌だよね。
不機嫌でなけりゃ、落ち込んでるか。
落ち込んでなけりゃ、不安そうにしてるか。
なんかそんな感じだよなぁ。

で、たいていの場合、自分の気分をダメにしている「間違った考え方」にずーっとしがみついてしまってるんだよ。

で、その「間違った考え方」こそが自分の個性とか哲学だと思ってる。そう考えて、それにしがみついてる。

手放しゃいいのに。

こっちから見て「しがみついてる」と見える、という段階で、そのしがみついてる考えが、その人自身のものではない、というのはハッキリしてんのにねぇ。

よくわからん。
どうしたら良いのか。

まぁ、あれです。
「よーわからんわ」と、途方に暮れるっていうのは 、間違いなく素直な自分なんだよねぇ。

しばらく途方にくれてようかな。

なんか気持ちも湧いてくるだろ。
自分の内側から。
僕は自分を信用するからね。
何かにしがみついてる必要もないってこと。

雨が降る日もあれば、晴れる日もあるよ。

法とは何か。

ちょっと書く。

法律には刑法と民法があります。

刑法は、国家公務員をしばる法律で、これはもともと「国」というものが強大な力を持っているから、その制限のために安全弁として設けられたものです。
(憲法も国家公務員を縛る法律です。国民は別に憲法を守る必要はありません。ここ勘違いしないように。人間は生まれながらにして自由です。)

リヴァイアサンの話その他、西欧の歴史を学習すれば、このあたりは理解� �きます。(本当はウソ。市民とは何かとか王とは何かとか、国家が成立してきた成立史がわかってないと理解できないです。ほんとは。)

それから民法の方は、国民と国民の間の争いごとを、いつまでも長引かせたりしないように線引きのルールとして定められたもので慣習法に従うというのが大前提であり、現実問題としては、解決策として「お金」に変換できるかどうかが判断基準になることが多いでしょう。

こういう近代的な法律の仕組みを、日本は明治の時に海外から輸入してきました。なので、実はもともと、ものすごく無理があります。

民法などは慣習法なのですから、江戸時代の判例を元に細則を決めていけば民衆の納得する民法も作れたはずなのですが、いかんせん、江戸時代の判例では、資本主義の根幹を� ��す「所有」の概念がキチンと成立しないのですね。つまりお金で解決するという一つの近代的な線引きができなくなるわけです。

単純に言い切ってしまえば、国民間のもめごとのすべては、「損害賠償請求ができるかどうか」で判断するしかありません。実はそれが近代国家だ、ということなのです。

価値観は多様であり、その価値観のどれかに国なり裁判所なりが荷担することはできませんから、「常識や慣習に照らしあわせてみて、損害額はいくらになるか?」という判断をするというくらいしかできないのです。

これが法律の基本の基本です。

こういう事は学校では教えてくれませんが、社会に出ると、おぼろげながらに理解してきます。

で、人によっては自分の価値観と、世間の判断にズレが生じた時な ど、精神的に不安定になりますから、自分の心の安定のために、こういう大枠での概念をキチンと学ぶ、ということをします。

で、こういう大枠での概念を勉強してない人は、ずっと不安なままになってしまいます。

なんでずっと不安なままになってしまうかというと、たとえば民法なんかは、江戸時代の判例が使えなかったので、フランスだったかドイツだったかの民法をそのまま持ってきて、それを翻訳して使っているからなんですね。

本来「慣習」を法律として明文化していく、地道な積み重ねが必要な作業を、いきなり翻訳でごまかしたわけです。

なので、日本の民法、つまり明治以降の「法の裁き」というものは、国民生活の実感とすごくかけ離れていたわけです。

まぁさすがに100年以上経っているの� �、離婚とかそういう基本的なもめごとに関する判例はたくさん揃っていて、「現場処理」でそれなりにうまく行くようになってきた気はします。

「行列のできる法律相談所」なんかは、そういう積み重ねの結果でしょう。

ともあれ、日本においては、民法というものが「実感を伴わない法律」だったおかげで、法の活用という大事なことが全然理解されていないと思うのです。

民法などは、もともと生活に根ざした「判断集」であるべきものですから、とにかくなんでも法に照らして上手に活用すれば、やたらともめることなく利害の調整ができて良い、というものが法というものの良い側面なのです。

しかし、その民法が「外国の習慣の翻訳物」だったというとんでもなさのおかげで、日本においては法というのは� �それこそお題目になってしまいまして、「法に訴えずに示談ですます」というのが正しいあり方、常識ある態度って感じになってしまった。

ここのところが、日本が近代化するにおいて不幸だった点です。

これに加えて、大学がキックアウト制(入学するのは簡単だが、試験・レポートが毎週のようにあって、卒業するのは至難の技という制度)を導入せずに、中国の科挙を真似て「入学するまでが大変」という仕組みにしてしまったのが日本の大学制度なので、こういう法の仕組みの基本理解をしている「大人」自体が非常に少ないですし、また正しい知識を持っている人を正しく判断する手段・方法そのものがなくなってしまったのです。

大学がキックアウト制であれば、「●●大学卒」という言葉は、非常に大きな重み� ��持ちますので、その人が「これこれのルールはこういう過程と目的のために作られた」などと言えばそれは社会全体に認められ、キチンと定着するのです。つまり権威主義が正しく成立する。「権威」ある人に実力がちゃんと伴うってことですね。

なので、キックアウト制を入れている欧米では大学で政治学を学んだ人が政治家になるのは当然で、そういう人が「法」を作っていくわけです。
実にわかりやすくまっとうな仕組みでしょう。

しかし日本においては、大学がキックアウト制でないがゆえに、「学者ごときに何がわかるねん」と民衆が学問を「権威」として認めない。社会的拘束力がないんですね。
(何より実際、大学の教授の多くが全然「実力」がないという側面もまたあって、それが困りものではあるんで� ��が。)

なので、日本では学者で政治家というのは、あまり民衆から信用されない。あまつさえ「学者に政治は無理だよ」とかの暴言が出まくり、かつ説得力を持ったりするわけです。

日本で学者出身の政治家が選挙で通るというのは、よっぽどのことなのです。(そういう意味でいくと、あの竹中のヘイ公は、本来日本人からは支持されないはずなんだがなぁ。なぜか大臣にまでなっちまってる。アメリカの裏工作があったとしか思えないのよ、私には。)

ということなので、平均的日本人の場合、あまり勉強もせずに法を守るとかルールを遵守するということの正しい判断を、キチンと考えるということに関しては、まぁ基本、「無理」と考えたほうがいいんですな。

我々にできるのは、そういう事とは別に、我々日本� ��にもともと備わっている日本文化(和=輪の文化で、回りに合わせるのを良しとする文化)を頼りに、中国で生まれて、もう何百年にもなる儒教の「礼節」あたりを、判断基準にするぐらいしか実感のともなった判断はできないわけです。

で、これがまた、儒教と欧米のルールとは、ある程度互換性もあるんだけど、日本文化の中に溶け込んだ「儒教」は、それこそ骨抜きですから、これまた形骸化していて「基本方針」みたいなものはないんですね。

なので、まぁ「礼儀・しきたり」とかそういうことくらいしか、日本には守るべき生活に根ざしたルールがない。

誰かが、日本の現実の法は「冠婚葬祭入門だ」とか言ってましたが、言い得て妙なんですね。
裁判所や弁護士とかでも、多少は「冠婚葬祭入門」を参考にす� ��んじゃないかしらん。

日本には新約聖書もタルムードもコーランもない、明文化された倫理書がないので、そういう事になるわけです。

とまぁ、ここまで大枠の理解をまずやっていただいて、ですね。

それから法や犯罪、その予防・防止、ってことを考えないと、日本においてはまともな発言っていうのはできないわけですよ。

ちゅうのは、法律の体系自体、欧米からいきなり移植しただけのものを、なんとか100年くらいかけてえっちらおっちら応用してきた程度でしかないから、なんですね。
裁判官も警察官も、とにかくそういうわけのわからん、実感のない法律をどんどこ頭に入れて、それで動いていくしかないわけです。

まぁ、江戸時代に300年、海外との交流を絶っていたわけですから、正直言って、� ��まの日本人自身、欧米の文化のほんの上っ面しか知らないわけです。

なので、そういう事もわかってないのに犯罪がどうとかうんぬん言うのは、あんまり賢くないわけですよ。

特にコンピュータ関係の問題は日本人に判定することすら無理だと思うね。パソコンの生産は地球規模ですから、これはどうしても世界の常識を、まず「規範」として学ばないとしょうがないんです。どうせ、それに合わせてしかPCの世界は動かないから。

ということなんで、たとえばウィルス対策ソフトなんかに関しては、私はまだまだ、まだまだ、まだまだ様子見ですね。ウィルス対策ソフトを作っている会社もほとんどはアジアの会社でアメリカではノートンくらい。

なによりあれは、本来「自分で対応策を取る」のが本来の姿であるPC のセキュリティを、専門家にまかせて、それでお金を支払う、運転手を雇うようなサービスですから、どこまで行っても「特別サービス」なんですね。

パソコンのセキュリティの大基本は「自分のデータは自己責任でバックアップを取っておく」です。バックアップを取れるようにコピーが自由にできる「仕組み」が用意されてるわけですから。

また、「データが消える」というのも、勘違いしてはいけませんが、もともと「消えるように作ってある」わけですね。メモ用紙で不要なメモはちぎって捨てられるのと同じ仕組みです。

なので、データが消えても、それは「自分の責任」で、誰に損害賠償請求もできません。一切無理ですから。つまり「法」として取り扱えないのです。

あまりに勘違いがはげしい人が時折 いますので、はっきり書いておきますが、ウィルスに感染して自分のパソコンが「踏み台」にされた場合は、感染した人は「被害者」であって「加害者」ではありません。ここを勘違いしてる雑誌とか多いんだけど、これも上記のような日本特有の「法事情」があるからでしょうね。

まぁ、ウィルスが蔓延すると、たとえばネットワーク負荷が落ちてしまって社会的に大きな迷惑をこうむりますから、その責任のすべては、他者のパソコンを「踏み台」にしてまで感染していくようなプログラムを作った作成者に責任があります。

社会的な迷惑のすべての責任は、そのプログラム単体にあるわけで、たとえばウィルス作者が逮捕されるというのは、「社会的に大きな不利益を発生させた」ということから、「そういう作者を放置� �ておくとみんなの迷惑になる」ということで、国民の利益を守らねばならない国が国民を代表して逮捕する、ということでしょう。刑法の範囲ですね。

しかし、この「刑法」としての罪が成立するためには、たとえばウィルスが勝手にだれかのパソコンにとりついて、自己増殖するということの「責任」を、すべて、その一切合切を、犯人に持たせないと、取り締まれませんわね。一億台に感染したから、一億台の被害。これは民法みたいに個人が損害賠償請求するような事柄ではありません。だから国とかが動いてもらわないといけない。

これを「利用者がウィルス対策ソフトを入れれば拡大は防げた」としてしまったら、「ウィルス拡大の責任は一人一人にある」ってことになってしまって、民法の話になってしまって、警� ��は民事不介入、犯人逮捕ができません。

そんなアホな! なんですよ。
そんなアホなことがあってたまるかってことですね。
まず、ウィルス作った奴を捕まえてくれってことですわ。

だから、雑誌とかで時たま「加害者にならないためにもウィルス対策ソフトを入れましょう」とか書いてるのがありますけど、あれは単なる勘違いなんです。

でも、そう勘違いするのよなぁ。「回りに迷惑かけないでおこう」というのが日本人の美しい文化だし、それは守りたいし。だから「礼儀」としてウィルス対策ソフトを入れるというのは、まぁ有りかなぁとは思うんだけど、でもまぁ「礼儀」までの範囲ですわなぁ。

なんと言っても、日本は東洋の片隅の、まだ一神教すら生まれていないガラパゴス島みたいな国ですから。「倫理」とか「宗教」とか、そういう「判断の根っこ」みた いなところの「実感」がね。普通人のレベルが世界の標準と全然違う。

そこを頭に置いておけるかどうか、なんだよなぁ。

そうでないといろんなことに対して「日本独自の礼儀」をあてはめて理解して、イライラするとかしなくてはならなくなるんですね。

これが高ずると、「中高年の自殺」にまで行ってしまうし、そのイライラは、ともすると子供に対する抑圧だとか虐待とかに形を変えて噴出してしまったりするんですね。

しかしこれが、ちゃんと勉強して、物事の仕組みを理解した上で「私は日本文化をこのあたりまで大切にし、ここからは世界標準の世界ルールに従おう」とかの自分なりの哲学にまで咀嚼できれば、イライラが起こることはないわけです。

逆に言うならイライラしてるのは勉強不足であ� �、自分が悪いってことです。

で、勉強すると、そういう仕組みが見えてきますからイライラも減ります。自分の成長がまず大事、というのはそういうことなんですね。

おもしろいの見つけた。

ネットで、こんなサイトを見つけた。

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カウンセリングをネット経由でやっちゃおうという商売。
それもメニューとか見てみると、すげー軽い。
重いカウンセリングじゃなくて恋愛相談とか自分探しとか、そういうのがけっこうメインになってる。

いいんじゃないですか?

もうね、前から思ってたのですよ。日本人は、もっとカウンセリング受けるべきだって。

こんだけ日本の社会が欧米化されてるのに、日本には一神教の宗教もなければ懺悔室もない。精神的な意味での防護壁とかセーフティーネットがなーんもないんだ。

そりゃ自殺者も児童虐待も増えるよ。

世界に目を開いて、日本の文化との違いもキチンと把握して、相当に努力しないと、心の安定もないっていうのが、いまの日本なんですよ。

で、日本という国の文 化は、「一億総中流」だとか「和の心でみんな一緒がいい」っていうヨコつながりの文化だから、実は「はみ出しモノは削除」って文化なんだよね。

金持ちは恨まれるし、世の中の矛盾は弱者に押しつけられる。

だから児童虐待がドンドン増えてるんだ。だって日本には優生保護法がありますからな。貧乏だったら子供は生まれてこないほうがいいと殺してるんだもの。欧米の宗教からは考えられんと思う。(その分、貧困層は本当に悲惨らしいし、もらい子も多い。)

でも、この数年で、いつの間にやら「勝ち組」「負け組」なる言葉が広がって、国の法律も「勝者に甘く、弱者に厳しい」に変わってきた。「金持ちが恨まれる」ということよりは、金持ちがもてはやされるようになってきた。

「もう、大儲けすればす� ��ほど高い税金払わないといけないのはイヤなんだよ」と金持ちたちが言い出したというのも、ちょっとはあるんだろうな。いままでは、「儲けてもその分たくさん税金払う」のが「良い金持ち」だったんだけど、あんまりそんな仕組みにし過ぎると、金持ちがみんな外国に移ってしまう。そういう世の中になっちゃった。

だから金持ち優遇です。ホリエモンもスターだった。そうでしょ?
「ちょいとそれはなぁ、日本の文化にゃ合わねーよ。」とずっと思ってたけど、世の流れがそうなるならしゃーないわけで。

で、そういう欧米風の社会に、なんとか必死についていこうとすれば、これはもう、すごく勉強するしかないわけ。

そりゃ欧米なら一神教の教義やら、それに基づいた「生活の知恵」まで、ちゃんと一人一人 の人間が持っているし、気がおかしくなっちゃうなんてこたぁないんでしょ。

でも日本だと、そうもいかないわけで。

勉強しない人はどんどん精神的に追い込まれていく。たとえば「自己責任」なんてものも、日本人には本来実感できないものですよ。こんなもの、まず「神との契約」が理解できてなければ存在を自体を把握できない。

私の知っている人間で言えば「自己責任なんて企業の唱えるお題目でしかないよ」と平然と言ってのけた人がいてるわけで。


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いや、違うよ、それは。自己責任っていうのは、まさに自己責任で、ひとりひとりに科せられてるものなのよ。もれなく。みなさまに。イヤでも。少なくとも欧米では。

そんなんいつ契約したんや、ってなもんですが、一神教では生まれた途端に神様と一対一の契約したのと同じ、ということになってるわけでね。

いやまぁ細かい点はいろいろ違うんだろうけど。ユダヤ教とキリスト教とイスラム教で。

でもとにかく、一神教だと新約聖書とかタルムードとかコーランとか、「生活を律する教典」ってのがあって、「何も考えなくても」まともな生活ができるようにはなってるし、倫理も崩れたり、破壊されたり、失ったりすることが比較的少な� ��。

「なんで人を殺したらダメなの」
「●●●(教典名が入る)に、汝、殺すなかれと書いてあるから。」

で終わり。
ものすげーシンプル。
どんなに学のない、社会の底辺層の人にもわかる。受け入れられる。簡単。悩まない。

だから、「負け組」が大量に発生しても、さして問題にならないんだよ。

でも、日本は違うのよな。「みんな一緒」こそが文化だから「勝ち組」「負け組」なんてのが当たり前になったり、神と契約して「自己責任」とかやられると、もうついていけない。訳解らん。そうなる。

で、わけがわからんから、どんどんイライラすることになる。

で、このイライラを減らそうと思ったら、上記のような文化の違いを、キチンと順序よく学習して「ああ、勝ち組・負け組というのは 機会の平等であって結果の平等ではないんだねぇ」とかなんとか、それこそ欧米と日本との文化の根本的な違いを冷静に把握するくらいしか手がない。

ようするに、ものすごーーーーーーく手間がかかるのよ。

「なんで人を殺してはいけないの?」
「えーと、それはね、えーと私は良くないと思うよ。あ、殺されるのは怖いから。怖いことしたらアカンでしょ。んー、ちがうか。あれ?なんで。」

てなことになる。

これはどうしてもそうなる。
だって「教典」がないねんもん。そういうことで文化を律してないねんもん。「みんなが殺さないから、私も殺さないのが正しい」だけでなんとかやってこれたのが日本やもん。

このあいだからのアダルトチルドレンの話でも同じことですね。とにかくキチンと欧� ��での心の問題への対処の仕方とか、情報とか知って対処するしかないんだよなぁ。日本の場合は。本を読んで専門家と同じくらいの知識を身につけて自分で納得するくらいしか「救い」の道がないんだ。

すげー、手間。

でもしゃーないやん、日本には一神教はないし、おそらく多分、「八百万の神様とか多様性がいい」と思っている人には、唯一「一神教」だけが「信用できない宗教」になっちゃうだろうし。
そら、精神的にしんどいって。

こんなインターネット時代になっちゃうと。
「自己責任」は企業のお題目じゃなくて、法的拘束力を持って、我々の生活にひたひたと知らないうちに入り込むしね。

だから、僕としては、こういう「カウンセリング」とか、もう「早め」に受けたほうがいいと思ってるの 。

そんなものね、ほっとくとドンドン不安とイライラが増しますよ。当然ですよ。海外の文化が「背骨」の紹介もないまま直接個人の生活の中に入ってくるわけですから。

正気を保つだけでも、相当に勉強しとかないとダメってことになる。

日本の文化を残すにしても、どこまでは残すべきで、どこからは欧米の「汎地球文化」にあわせるべきなのかの判断とかは、やっぱり相当に勉強しないと適切にはできなくなってしまう。

とんでもないですよ。これは。
中年の自殺がどんどん増えてるのも当然ですよ。

ちょっとネットで調べてみたら、

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日本の自殺者数は、先進国中で最も突出している。世界の中でも3位から5位の間に入る。

1998年度自殺者数:33000人以上。
1999年度自殺者数:33500人以上。
2000年度自殺者数:32000人以上。
2001年度自殺者数:31500人以上。(小泉君政策の1年目)
2002年度自殺者数:32500人以上。(小泉君政策の2年目)
2003年度自殺者数:35500人以上。(小泉君政策の3年目)
2004年度自殺者数:36000人以上。(小泉君政策の4年目)

1978年以降、最悪の数字を記録。交通事故の死亡者数の4.5〜5倍。全体の約73パーセントは男性。すべての年齢層で増加。自殺者数は毎年増加し続けている。

----------------------
って状況ですしね。

児童虐待だって、

----------------------
 児童相談所で取り扱った相談ケースのうち、虐待と
 して処理したケース(各年度末現在)

平成2年度(1990.4-1991.3) 1,101
平成3年度(1991.4-1992.3) 1,171
平成4年度(1992.4-1993.3) 1,372
平成5年度(1993.4-1994.3) 1,611
平成6年度(1994.4-1995.3) 1,961
平成7年度(1995.4-1996.3) 2,722
平成8年度(1996.4-1997.3) 4,102
平成9年度(1997.4-1998.3) 5,352
平成10年度(1998.4-1999.3) 6,932
平成11年度(1999.4-2000.3) 11,631
平成12年度(2000.4-2001.3) 17,725
平成13年度(2001.4-2002.3) 23,247
平成14年度(2002.4-2003.3) 23,738
平成15年度(2003.4-2004.3) 26,573
平成16年度(2004.4-2005.3) 32,979

社会福祉行政報告例 
-------------------------------------
ですわ。

だから、ほったらかしにしとくと、どんどん悪くなっちゃうんだって。勉強するか、カウンセリング受けるか。どっちかだよ。

ほんとに。

こういうことは、構造的な問題で、個人でどうにかできる事じゃないわけ。

だから、勉強して地球の常識から日本の常識までのパースペクティブで「文化」「倫理」を勉強するか、そうでなけりゃカウンセリング受けるか、なんらかの宗教に属するか、そういうことでもしないと、なかなか安定した精神は保ちにくいんだ。

なので、僕としては、「カウンセリングとかは早めに行ったほうがいいよ。」と言いたい。

鼻風邪のうちに医者で見てもらった方がいいんだって。こじらせてから行くと� �何かと大変なんだから。

で、最初に紹介したネットのカウンセリングサービス。

こういうのはいいなぁって思うわけですよ。
やせても枯れても、金取るならプロですからね。金取る限りは、「なんとかしなくちゃ」って思ってくれるからね。
そこはけっこう重要だと思う。

金じゃなくて友人とか親しい人だと、もともと依存しあってる部分とかあるから、「カウンセリング」にならないんだよなぁ。

ほんと、心の問題って重くなってからだと、それこそ「キチガイ」扱いされるからね。症状が軽いうちに、こういうのを試して、日々「ちょっと落ち込んだ気持ちを、少し上向きに修正しておく」みたいな、それこそ整骨院とかマッサージに行くような感覚で「心のメンテナンス」とかしておく方がいいと思うん� ��。

そうでないなら、本とか山盛り読まなくちゃしょうがなくなる。アダルトチルドレン関連だけでも4〜5冊読んだもんなぁ。でも、本当に必要なのは、一冊の本で、ほんの数行ってことも多いんだ。その一言で「救われた!」って感じることも多い。でも、その数行のために一冊読むか? ってことだよねぇ。

その点、カウンセリングだと、まぁ、おおまかに言って「だいたい必要だろう」と思われるようなことは言ってくれるからね。
(いや、これが相性もあるからいちがいに、必ず良いとも言えないんだけど、それでも素人に相談するよりは、はるかに知識豊富だし、安心。)

ま、僕ならこのサイトでカウンセリング受ける程度のことは本を読んで学習でなんとかするし、それでうまくいかないことは、直接カウンセラー探してカウンセリング受けに行くけどね。

でも、あれなんですよ。カウンセリング受けに行くにしても、実は「自覚症状」ってのがないと行きにくいのよな。「なんとなく不安で」っていうのとか行きにくい。(いや、その程度で充分自覚症状なんですよ。だからそういう人はドンドン行� �ましょう。)

でも、ここのサイトは「恋愛相談」風のメニューとか「自分探し」「キャリアアップ」なんてものまであるから、けっこうお気楽でいいと思うわけです。
カウンセリングも問診票とメールカウンセリングみたいだし、気楽でしょう。

ほんと、肺炎になってから医者に行くより、鼻風邪の間に医者に行って栄養剤とかもらったほうが、やっぱりいいって。

そういう意味で、ここは面白いなぁ。
諸手をあげて賛成というわけでもないけど、でも意義はあると思います。

悩みがある人はやってみてはいかが?

自分の身に起こることはすべて自分のせい。

「自分の身に起こることは、すべて自分のせい」

この五年から十年で、この考え方に至っております。自分のせいだからと言って、� ��分を責める必要はないし、そんなことしたら逆効果なんだけど、ダメな自分を受け入れるということくらいはできなきゃね。

数年前に、ある仕事で、とんでもない担当者に出会ってしまって。「俺は発注してるから偉いんだ」というような発想しかない人で。意味なく人を呼びつけようとして「外注なんだからさっさと来い」という態度だったんですね。

むかっと来たけど、「申し訳ない、ちょっと今日は伺えません」とか「昼一は無理ですが夕方6時とかならいけるかもしれません」とかで対処してたんですけどね。

細目は省略するけど、まぁ結局、請求段階でトラブッたわけです。三ヶ月近く時間を取られて、そうとうな量の原稿のリライトして、その分の請求がまったく支払われずになってしまったのですが。

よ っぽど法に訴えようかとも思ったけど、そういうことにこだわる自分が情けない感じがしてやめました。(本当はとても良くないことなんだけどね。こういうルール違反をする奴は法的にガツンとやるのが社会正義なんです。本当は。)

で、その時とても悲しい思いをしたのだけれど、いったい何が悲しかったかというと、そういうダメな奴を許せない自分がはっきりといてるのだという事実ですね。

私の中にとても頑固な部分がある。許せないものは許せない。で、これはあるんだから仕方ない。このやっかいなものと一緒に生きていくしかないんだ、という自己受容です。

これが実に悲しかった。
んー、わからんかなぁ。

本当は、マザー・テレサみたいに、未熟な相手を完全に許して、心の平穏を保ったまま、そ� �でも正当な請求を支払わないままにしようとしているという社会的な「間違い」に対しては平然と法に訴え、社会悪としての相手の「行為」を裁く、というのが正しいわけです。

でも、そんなことできねーよ。支払いしようともしねーんだぜ。そんなバカなことが許せるかよ。って気持ちがどうしても消えない。いや、怒って当然なんだから怒っていいんだけど、コントロールできないくらいに腹が立ってしまったりする。そういう自分がいてるわけです。

そのコントロールできないくらい腹が立ってる自分というのが不憫でね。「ああ、こういう爆弾を抱えながら私は生きて行かなければならないのか」という気づきがあって、それで悲しかったわけです。

当時、本当に悲しかったなぁ。

だから法に訴えるってこと� �しなかった。そんなことしたら自分の腹立ちがどんどんエスカレートするだけで、自分の精神衛生上とてもよろしくないと思ったわけです。(本当は弁護士とかにまかせると、その段階で訴えた相手とは直接の接触がなくなるから、その意味で精神衛生が保たれる、ってことなんですけどね。)

ま、前にも書いたけど、行動と人格の区別ってことですね。人格的なところに腹が立ってるところもあるんだけど、それは言っても仕方ないし、ただそれでも「行動として間違っている」ことは正しく正さないと世の中のためにならない。でも、その「行動のみ」を弾劾するためには、自分の中に人格攻撃をしないだけの冷静さが必要ってことですな。

で、それができるほど私は成長はしてないってことです。
むずかしいよ、それは。
明確な過ちに対しては腹が立つもの。立腹して当然だし。

なので、相手を訴えることもできず、請求もできなかったのは自分のせいだ、ということで、この件はあきらめたんですね。
しょうがないよな。自分がまだまだ未熟なんだし。
で、そんなしょうもない相手に対して、いつまでも怒って精神の不安定状態でいたくないし。そういう精神の不安定状態であることの方がうんと問題ですから。

この時の救いは、なんといっても、従来からおつきあいある得意先さんから、ちょっとした仕事(価格的にはごくごくお安い仕事でしたが)の依頼があって、その仕事がネーミングとかね、そういう専門性の必要な仕事で「これはもうシゲさんにお願いするしかないなと思いまして」と、キチンと「私」を認めてくれる仕事だっ たってことですね。

ああ、ありがたい。こんな風に私をキチンと認めてくださっている人がいてるではないか。こういうお仕事に感謝しながら生きることが重要だ。

という気持ちになりましてね。もうそこからはひたすら感謝ですよ。感謝できる仕事を優先的にやる。とにかくそれが基本。そういう気持ちがすごく大事ですわね。

やっぱりね「外注先だから好きに使ってやれ」みたいに志しが低い人に対応してるとね、こっちの気持ちにも「相手をしてやってるんだ」という奢りが出るんですね。これを、いくら相手がひどい人でも、奢りなしに感謝して対応できるだけの人格的完成度を自分が持ってるなら、そういう志の低い人を相手にすることもできるんでしょうけど、私はそれだけの許容度はなかったということなわ� ��です。

だから、まだまだ、自分を磨かないとだめなんだなぁと思うばかりでね。

結局はそういう志の低い人に「相手してやってるんだ」という奢りがあったからトラブルが起きたわけで、まずは腹が立ちそうな人には近づかないという所からやらないとダメなわけです。私の場合は。このあたりは人によるでしょうがね。

(どうも私は、こういうダメな人の相手をしてやって、それで「相手をしてやってるんだ」という満足感を持ってしまうという悪癖があるんですな。これ、ほんとなんとかしないといかん。それは間違った感情であり、奢りでしかないですわね。仕事の上での「だめんずうぉーかー」ですからな。)

身の回りの人間を見て、それを鏡にして成長するっていうのは、要するに、こういうことで、どれだ� �自分の中身というものをしっかり分解して把握できるかってことに尽きると思う。

どうしても変更できないこと(自分の欠点・弱点の把握。私の場合なら「怒りのコントロール」)と、社会正義からの善悪の把握(この場合では当然の報酬を未払いであること)、自分の行動の決定(それらを総合しての判断)ということが必要で、そのためには、自分の内面をしっかり見つめるという作業も必要だし、法的な問題をキチンと把握しておくことも必要だし、心理学的な知識とかを持っていることも役立つでしょう。

総合的に、全部必要なんだよな。結局。

で、そんなことを思ってたら、「許せない自分が許せない」というのは、心の問題の中では比較的よくあるパターンの課題であるようで。で、やっぱりそれはまず「自己受容」が 大事なんだね。「私は許せていない。」と知ることが、まず大事。で、「許せなくてもいいんだよ。それが人間なんだから。」と自己受容する、つまり「自分を許す」のが先なわけです。

これを、自分の心の中を顧みることもせずに「相手を許してるよ」と思うのは、「相手を許してるよ」ということで「私は偉い」というご褒美がある、単なる奢りですわな。

自分の中に「許せない自分」がいてると分った時は、ほんとうに悲しくて、どうしたらいいか分らなくて、フォーククルセダース(古っ!)の「悲しくてやりきれない」ばっかり唄ってた。

悲しくて、悲しくて、とてもやりきれない。
このやるせないモヤモヤを誰かに告げようか。

ってね。

でも誰かに告げても、まぁモヤモヤは消えない。(あ、しまった 。ウソ。誰かに告げるとラクになる。カウンセリングはすごい効果あると思う。ちなみにこの曲の作詞したのは北山修だし。作詞家で精神科医で、精神分析家の「きたやまおさむ(芸名)」ですからな。だから「誰かに告げようか」になるんでしょうが。キリスト教の人だと懺悔室だよな。日本に懺悔室はないからやっぱりカウンセリング受けるのがいいってことになる。)

ともあれ、誰かに告げてもいいけど、そうではなくて、自分を抱きしめてやることが大切なんだと思うね。

「そんなダメな自分も私なんだ。そういうダメさとともに生きていこうね。僕はずっと僕自身の味方だよ。」と自分をまず抱きしめてあげることだ。

それができないと、人生は辛くなるばかりだもの。

前から、アダルトチルドレンの話を書いて いるけど、親だって未完成なんだから、完璧ではありません。そういう意味では何かしら子供を傷つける行為を親がすることがあるわけです。

で、それをして親を許すとかどうかとか、そんなこと考えること自体がバカバカしいわけ。

何が大切なのか?

それは「ケガはどこか?」ってことですよ。

子供には自尊心は備わってないです。ということは、どんな不用意な言葉や態度で傷つくかわからないわけです。
で、その傷を癒さないまま大人になるから、アダルトチルドレンというのは他者との関係を良くしていくことができないわけです。

だから、まず必要なのは、自分の「ケガの手当」だってことなわけ。親がどうとか言ってる場合じゃないって。
そんなこといくら考えても、何の意味もない。

い ったい自分はどういうタイミングで、どういう事柄について頑なになったり、立腹したりするのか? そういうことをキチンと自分で把握して、まずは「抱きしめる」。自分を抱きしめてやることです。
それをしないとケガが治らない。ジュクジュクになって化膿するばかり。
親がどうたら言うのは、石につまづいて転んでケガした後で「私はあの石ころを許してます」とか言ってるのと同じ。意味なし。まるでなし。

重要なのは、「石につまづいてこけることがあるから、それに注意すること」ですね。これは自分が親になったときに子供を不用意に傷つけないように注意するということ。

で、それより先にやらねばならんのは、自分のケガの手当です。転んでケガしたのは膝小僧なのか肘なのか。ほっぺたなのか頭なのか。

これをキチンとやらないから、心の傷が化膿してジュクジュクになってとりかえしのつかな いことになるわけです。

親になってから、子供のことばっかり言ってる人間とかは、基本、これです。

自分の親のことも、自分の子供のことも、両方忘れろ。

まず、自分の「ケガ」してるところはどこか探せ。
で、そこにヨーチンとかマキロンとか塗るのが先だよ。

そら、薬塗ったらしみるし痛いんだけどね。痛くてギャー!とか言うんだけど、でも塗らなきゃダメだよ。化膿するよ。

そういうことなんだから。

自分の身に起こることは、すべて自分のせいで、それはたいていの場合自分が怪我してることにも気付かずに、あるいは気付いてないフリして生きてるってことだと思う。

自分の顔は、自分だけが知らない。

この数年のことを思い起こすに、知人・友人に対して、正直な感想 や意見、あるいは批判などを提出して、想像以上に苛烈に反応されることが多い。

で、つらつら思うに、多分、「このくらい指摘されても『ああ、そうかなぁ、そうかも知れないなぁ』程度の反応だろう」という前提で指摘してるんですね。私としては。

ようするに「この程度の指摘なら、受け止められるだろう。」という前提のもと、指摘してることがけっこうあるわけです。

もちろん、あまりに鈍感で気付きが無さ過ぎて、カリカリに怒って叱りつけることもあるんだけど、「それはちょっと●●なんじゃないの? こっちから見ると○○○○に見えるよ」と、サラっと言ったつもりという場合も多いわけです。でも、「そんな言い方ないでしょ!」とか、ものすごい反応をされるのよなぁ。

「えええええー? そんなに苛烈に反応するようなことかぁ?」とか思うことが、けっこうある。

もう、こうなると処置なしなので、ほったらかしにする。そこまで苛烈に反応するってことは、多分指摘が当たらずとも遠からずで、その人の心の一番痛いところを突いてしまったんだろうなぁと思うばかり。

ちゅうかね、アダルトチルドレンの話でも書いたけれど、この一二年で、たぶん私自身が自尊心が高くなってきて、自分の欠点を指摘されても「ああ、そういうところはあるかもなぁ。ちょっとずつでも直していこう。」と、普通に思うように変わってきたからなんだと思うのです。

そらまぁ一気には無理やけどね。

前に、知り合いに「食い物の味とかをどうたらこうたら言うのは、はしたないという感じがして良くないと思う。」 というような話をしてたら、「それは食べるという事に関して歪んでると思う」とだいぶキツイ指摘をされたのですが、数年ほどして、何かの話題で「あんた、なんか食に対して潔癖な感じがなくなってきたね」と言われて、「ありゃ、そうかしら?」と自分でびっくりということがあったのです。

たぶんね、この数年で、自分の内面を、そうとうにほじくり返したから、その過程で、いろんなことの感じ方が相当大きく変わったんだと思う。

痛みと成長が二人連れ、なんてことも、よくよく考えたら、この数年で学習したことかも知れない。痛みが大きいほどに学習の度合いは大きいですな。

「君はお金の計算とか甘いよ」と言われたことがあって、一時期すごく反発してましたが、これもいろいろ学習して克服したし、� ��わった。考え方だけは。

そういう風にしてきたから、「まぁ、このくらい受け取れるやろ」という思いが相当きつくなってしまってる部分はあるかも知れない。

なおかつ心の内面を見る目も、多分相当キツく、シビアにチューニングされてしまったんやろなぁとも思いますな。

すんまへんなぁ。そこまで反応するとは思ってなかったんっすよ。許してやっておくなはれ。という事だ。

でもなぁ、想定外にキツイ反応してるってことは、まぁまず間違いなく、こっちの指摘が、そうとうに鋭いところを突いてるからのはずなんよなぁ。突いてなかったら「わははは、そらひどい勘違いですなぁ。」で終わりなわけだし。

なので、この手の話題には、もう触れないってことにするしかなくなる。伴侶とか血縁者の場合 なら、徹底して問題を解決しないといけないとも思うのだけれど、知人・友人の場合はちょっと置いておくしかない。

で、当人がその事実を受け入れるか、あるいはごまかしてもいいけど(ごまかすのよな、人間は。そういうものなのかもしらん。)どうにか、なんとかするまでほっておくしかない。

別にこっちが悪いことをしたわけではないし。

というのも、結局人間は、自分の真の姿は、他者から教えてもらうしか他に方法がないと、相当昔から私は思っているからなのであります。

「君から見て、私はどう見える?」とか「私にはこういう問題があると思うがどうですか」とか「これこれがうまくいかないのは、どういうところに問題があると思う?」とか、良く聞いてたもの。

とくにネックだった恋愛関係で はとくに聞いてた。

鏡の事を思い起こせばすぐにわかるのだけれど、人間は、自分の顔を、自分でだけ見ることができないのです。遠くをぼーっと見ている自分の表情が、どんなにアホなのか、あるいは美しいのか、まったく不明なのである。

日常、表情豊かに生きている人も、静かな人もいてるけれど、自分の表情が、そのどのあたりに位置するのかとか、そういうバランスさえわからないわけです。

右ナナメ上を見ている時の自分の顔を、左三十五度から観察する、なんてことは絶対にできないわけですよ。
それができるのは自分以外の他者だけだ。

それがよく分かっていたからかも知れないが、とにかくうまく行かないことに関しては、客観的な意見を聞き回った。

そしたら答えが「自己完結してるわな 」とか「ユニーク(ようするに変わり者ってことだが)」とか言われて、ずいぶんショックでもあった。

で、考えてみると、そういう他者からの評価を軸に「自己完結しないように、周りとの連携で仕事をする・仕事を他者に振る」とか、「ユニークすぎないように、共通項でお互いにメリットのあることは優先させる」とかを、ちょっとずつ学んで取り込んできたところがあるのですね。

一気にやるのは大変なんだね。ちょっとずつって言うのがいいんだ。

そういや、ビートたけしが映画界に入ったのも、ちょっとずつだったんだよなぁ。最初はゲスト出演の脇役で。
でもいつの間にか俳優になっていて、監督になっていて、世界の北野になってる。
あの人、そうやって少しずつ変わっていくのがうまい。
髪型と� �もちょっとずつ変えていく。で、ハッと気付くと全然変わってるのな。

やっぱり上手い人は、「ステップを刻む」ということを知ってるんだと思う。自分が越えられるハードルを、越えられる分だけ、常に越えてるんだね。
だから、それが五年とか十年で大きな差になってる。

結局、最近の友人・知人とのやりとりでの問題は、この「ちょっとずつ自分を育ててきた」ことと無関係ではないんだろうなと思うわけです。

多分、「自分の顔は自分が一番良く知っている」と思ってる人とは、もう、相容れないんだと思うんですよ。
「そんなアホな、それ、鏡で見ただけの顔やろが」としか思えないもん。僕には。ほんと。

「俺の顔には右目の下にホクロがあって」とか、そういうどうでもいいこと言うのな、そう� ��う人って。
いや、知らんって。どうでもいいって。
そうじゃなくて、あなた以外のみんなが思っているあなたのイメージが大事なんじゃないのってことで。

で、もうひとつ言うと、「自己完結」とか「ユニーク」とか言われても、それって「ヒント」でしかないわけね。
そういう印象を持たれている原因となる「何か」が自分の中にあって、それを探り出さないと本当の自分改革はできないわけです。

だから、そういう「キーワード」程度のことに腹を立てるってことは僕の場合はほぼない。っつーか、最近ほんとうになくなった。「うーん。そうなんかなぁ。そうかも。ちょっと考えてみる。」って感じ。いやわざわざそう言ったりはしないかも知れないけど。どうせ、行動とかを変えるにしても、一気にはできな いと思うし、あわてることもないし。

このあたりはね、ほんとうに内面の自分と手を取り合って、自分の心の中を探検しないとわからないので、人それぞれ、やるも良し、やらないのも良しなんでしょうけどな。

でも、結局、「自分の顔は、自分だけが知らない。」ってのは大事だと思うわけですよ。
ここがわかってないと、「自分の課題」が上手に見つけられないから。課題のない人生はつまらない人生ですよ。いやほんと。

なにかを成し遂げるんだ、とか、私はこうなりたい! とかあるから、この理不尽な世界で、イキイキと生きていけるわけで。
課題さまさまですよ。

うーん。なんかどんどんカッコいい話にばっかりなってしまってるから、ここまで。
ほんとは、もっとドロドロしてるんやけどね。
まぁ、ここまでにしとこ。

間違いに気付くまでには時間がかかる。

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ISBN:4813311849 単行本(ソフトカバー) 国弘 正雄 たちばな出版 1999/12 ¥1,575

えー、久しぶりに、英語の習得に関する書籍に関して書きます。

馬鹿な話ですが、「英語の学び方」に関する書籍については、そうだなぁ、本棚を見ても、どう少なく見積もっても100冊以上、読んでるんですね。

30才を過ぎてから英語の勉強をはじめて、何をやってもうまく行かないから、「これはやり方が間違ってるのだろう」という感じで、読みあさったというのがあります。

部分的にはすごく役だったこととかあるし、いろんな良い書籍について、いろいろ話も書けるんですけど、今日はそういうこととは違って、「自分の気づき」のレベルということを、ちょっと書いてみたいのです。

表題の書籍は、同時通訳の神様と言われた國弘正雄さんの書籍でして、この方はアポロの月面着陸のテレビ放送の時 に、同時通訳をされていた方です。

で、この本は、「只管朗読(しかんろうどく)」と言って、ただひたすら、英語の本を音読しなさい、そうすれば効果がありますよ、と言ってる本です。ある意味それしか言ってない本でもあります。

初版は1970年ごろに出たらしいのですが、平成11年、6年ほどまえに改訂版が出されまして私はその平成11年に購入しています。

で、その時にいちおう読んではいるのですが、「音読」そのものは、始めたのは去年からなんですね。

つまり、読んでいながら言うことを受け取ってやり始めるまでに6年もの時間がかかっているということなのです。

で、最近音読が面白くなってきたものだから、読み直してみてるんですが、ほんとに「俺って、あほやなぁ」と思いますね。


ちゃんと、いろんな事書いてあるのに、読み落し、読み間違いしてるやん!俺はなんてバカなんだ、です。

その読み落し、読み間違いのひどさは、実際に音読をちゃんとやり出して分る。それまではわからないわけです。音読は本当に効果高いですわ。こらすごい。いや、びっくりした。

で、そういう状態の、いま読むとそうかぁっっっってことが多くてですね、で、当時「ここが大切」と思って鉛筆でマルで囲んでる部分があったんですが、それを見て「どこ読んでるねん、お前わ!」って自分を叱りつけたくなってしまったのですわ。

音読のすごさについても、いろいろ書きたいのですが、それは、また書くことにして、それより、自分の馬鹿さ加減について語る方が、体� ��をシェアするという意味では、より良いかと思うので、そっちの方を書きます。

だいたい、私の英語の勉強意欲というのは、「海外の新聞を読んで、海外から見た日本というものがどういう具合に見えているのかを知りたい」というような欲求から始まってるんですね。

それと仕事の上でもインターネット活用が一般的になってきて、英語のページからも情報を得たいというのがあったわけです。

ということなので「読みたい」というのがメインの欲求であって、「話す」ということに関しては、実は全然興味がなかったのです。

ただ、「読むための勉強」だけでは片手落ちかなという意識はあって、それで「話す」ということに関しては権威者である國弘先生の本の改訂版(平成11年のは改訂版です)が出たときに買っ たわけです。

で、当時の読み方を、本につけられたアンダーライン等から見るに、完全に「話すことは不要。概略、話すための練習法だけ頭に入れておけばいい。でもヒアリングはできるようになりたいし、そこは学ばせてもらおう。」という意識でしか読んでないというのが良くわかるわけです。

つまり「話すことは不要」と思いながら「話しかた」の本を読んでるわけで、実にバカというか、不遜と言うか、失礼というか、傲岸というか、カッチョ悪いわけですね。

ようするに、素晴らしい知識や、良い教えがあっても、受け取る側に「受け取らせていただきます」という心がなかったら、受け取れないってことです。

ああ、しかし、6年も無駄にしたんだなぁ。アホやなぁ俺。

「読めればいい」と思いこんで� ��から、「話すことは不要」となって、本の一部しかちゃんとできなくなってたわけです。

で、6年たって、やっと去年TOEICを受けに行きまして、自分の実力が客観的に、全然ダメで、でも、努力すれば多少はなんとかなりそうだ、というのも見えてきてはじめて、「音読をやろう」ということになったわけです。

話すことも読むことも、「言語の習得」というおおきなテーマの別の側面からの取り上げ方にしかすぎないので、実は同じことなんですね。

でも、それがわかってないからこそ、読むと話すを別のこととして、切り分けて、意識にフタをしていたわけです。

結局、実際には、現実どういう事だったかというと、「発音するのが苦手だから、苦手なことはしたくない」でしかなかったわけですね。

そういう ありのままの自分に気付いてなくて、「発音が苦手」を正当化する理由として「話せなくてもよい」としていたわけです。

でも発音できなけりゃ、聞き取りできないし、聞き取りできないってことは読めもしないんですよ。だって言語習得という意味ではまったく同じことですから。

このあたり、僕は音読によって、ものすごくインパクトの大きい体験を、この半年でしておりまして、もうそれは日本語のあり方、言葉を学ぶということ、話すとはどういうことか、文法とはいったい何なのかにいたるまで、音読体験によって完全に覆ってしまったんですが、それはまたいずれ書くことにしましょう。

とにかく大事なことは「苦手だなぁ」と感じていた事を「苦手と思っている」と正しく認識できずに「話すことは必要ない� ��読めればいいのだ。」と屁理屈をつけていたのだと自覚するに至った、それに6年もかかってしまったんだ、ということであります。

たぶん、本当に自分の、こういう正当化されてしまった間違いに気付くまでにはすごく時間がかかるんでしょう。ようは「苦手」を直視するとかが人間は不得手だ、ということですね。

でも実際には「苦手を避けてる」だけなわけで。で、その「苦手」を実際にやってみると、ものすごい天地がひっくり返るほどの「学び」「気づき」が得られるのですわ。

結局、こういう本を読んで学ぶというのには、「気づき」の体勢が整っているかどうかが、本当に重要なんだなぁと思いましたね。

本は、

●気づきの体勢を整えて、ありのままに受け取る。
●書いてあることを正しく理解 し、著者の意見をくみ取る
●書かれてあることを実践し、自分の人生の役に立てる。

の三段階の活用レベルがあると思うのですね。
で、たぶん多くの人間は、最初の「ありのままに受け取る」ということ自体ができてないんではないか? というのが最近ようやくわかってきたことです。

前から書いてますが、三色ボールペン読書法における「自分の興味が動いた箇所に緑線を引く」だけやってても、「よりよい知恵の受諾」はできてないんですよね。自分の成長はない。まぁ、読まないよりはマシですが。

やはり、「著者が言おうとしている、重要と思われるところ」に赤線を引く態度が重要で、これには「赤線を引くぞ」という決意がまず必要で、なおかつ、正しく赤線を引く「訓練」がないと、なかなか正しくは引けないわけです。

つまり、「書いてあることを、ありのまま受け取る」ということだけでも、これだけ大変だ、ということなんですね。

で、こういう具合に意識的に赤線を引く経験を増やしてはじめて、著者が言おうとしていることが、 おぼろげながら見えてくる。

で、それを正しく受け取ったら、そこで自分の考え方に影響が生まれます。この「自分の考え方に変化が出る」という所まで、体の中に、その著者の言おうとしていることを入れるのが、著者の意見をくみ取るということでして、実は僕は、これを仕事の上では「テクニック」として活用しています。

どういうことかと言うと、たとえばビジネス文書などに誰かが何かメモしてたりすると「このメモの意味は何ですか?」とか質問するようにしてるんですね。どうでも良さそうに思われる、ちょっとしたメモに、その人の考えてる思考体系そのものが眠ってる場合があるので、打ち合わせなどで資料を出されたときに手書きのメモとかがわずかでも書いてあると、必ず確認します。
ま、ちょっと、 これは余談でしたが。

で、この「正しく理解」した後に「書いてあることの実践」があるわけですが、実は、ここまで行く人というのは、ほとんどおりません。書籍に「こうすると良いよ」と書いてあって、その通りに実行する人は、まぁ3%が良いところだそうです。

読むだけ読んで、「ああ、わかった、わかった」と思って、何もしない。この本で言うと「とにかく何度でも音読をするのが良いのだ」と書いてあるのに、しない。本当に人間は行動しないですな。

で、自分自身の体験を踏まえてみて、行動以前に、書かれてあることを、正しく読み取ることが難しいわけですよ。何冊もの書籍を読んで基礎知識が頭に入ってないと理解できない事というのも多いし、「赤線」を引く訓練ができてないと、理解力が身に付い てない、ということもあるし。

しかし、なによりそれより以前に、「苦手」を「必要ない」としているような、自分勝手な言い訳をしている事のほうが、人間ははるかに多いわけです。

もう、そらね、こんな自分勝手な言い訳をそのままにしてたら、何にも学べていないわけですよ。そらもう、全然意味ない。

自分をごまかして、何の得もないってことです。

繰り返して書くと

●気づきの体勢を整えて、ありのままに受け取る。
●書いてあることを正しく理解し、著者の意見をくみ取る
●書かれてあることを実践し、自分の人生の役に立てる。

というのが大事だって書いたわけですが、こうして書くと、すごく普通のことしか書いてないように見えると思いますが、これを「できてない人間」に焦点を あてて書き直すと、

●言い訳して逃げて、事実を受け取る事自体を拒否する。
●書いてあることを曲解して、著者の意見を無視する
●良いことが書いてあるのに実践せず、人生が役立たずのままである。

ということなわけです。
まぁ、役立たずってことですな。
そういうことなんです。

とにかく、6年前に読んだ本を読み直して、そういう事をすごく感じましたねぇ。

と、言ってますが、じゃあ、この「英語の話しかた」が良い本でおすすめかというと、うーんと唸る。実際に「只管朗読」をやってみて、中学の英語の教科書を一ページあたり100回以上音読して、一冊、二冊、仕上げてから後でないと、この本に書いてあることは、実感を持って「おもしろい!」「なるほど!」ってならないですからなぁ 。うーん。

まぁあれです、実行までに6年もかかった自分を「アホ」と思うと同時に、曲解しまくりであろうとも、6年前に、「読もう」と思って、曲がりなりにも、いちおう「読んだ」自分を偉いと思いますわな。6年前のその体験なくして、いまの「実行」は絶対にないわけですから。

なんせ、この本「只管朗読が良い」とは書いてあるけど、音読の手順とか、回数の目安とか、そういうのは全然書いてないし。そういうところが不親切なのがよろしくない。

そういう意味では、

「英語上達完全マップ」

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の方が、ノウハウ本としては、はるかにお勧めなわけですが。

でもやっぱり、英語の音読なら國弘先生ですわねぇ。平気で「中学の英語の教科書を500回も朗読すれば、それが実力になります」とか書いてますからなぁ。

500回ってどんだけ猛練習やねん。ほんまに。
さらっと書いてあるから読み落としてしまうけど、一ページの音読に30秒から1分はかかりますからな。中学英語の教科書を、朝から晩まで8時間ずっと朗読して、やっと一ページってことですから。
ま、それをしなさいと、この人は言っておられるわけです。

いや、まぁ、そういうことなんだけどね。実際。

ともあれ、去年の11月から、毎日一時間ずつくらい音読をするようにし始めましたが、違うね、これは。中学英語の二年生用を� �冊、100回朗読を終えましたが、実感出てきた。いまは続いて中学三年生用をやっております。最近面白くなってきた。うん。

いや、ともあれ、音読はええよ。ほんま。
もっと早くに「実践」までたどりついておけば良かったなぁ。
でも、そういうものかもしれない。
間違いに気付くまでには、時間がかかるのだ。やっぱり。
関連商品:国弘流英語の話しかた

痛みと成長はワンセット。

「自分と友達になろう」という標語とともに、どうしても言いたいのが「痛みと成長はワンセット」ってことだ。

「痛み」を避けていて、成長はないんだよなぁ、これが。

単純に言ってしまえば、「無力な自分を知る」っとことなんだと思う。

何もできないとか、何も知らないとか、あるいは間違った事を� ��ってしまった、やってしまった、自分勝手なことをやってしまったなどなど。

そういう自分の「あやまち」「ダメなところ」を、まずありのままに認めるっていうのが、最初に必要なことなんよね、成長するってことのためには。

で、この「無力で力のない、どうしようもないダメな奴」である、自分の味方になってくれるのが、唯一「自分」なわけです。どんなに他の人に頼りたくても、この最初のところだけは、自分に頼るしかない。

だから「自分と友達になる」ってのが大事なんだけどね。

伴侶でも親でも子供でも、誰であろうが、自分の痛みは引き受けてはくれません。ちゅうか、わからんのよね、他の人にには。そういう痛みは。

だから、自分で痛みを引き受けるしかない。

「あっちゃー、やっ� �しもた」とかね。そういう痛い気持ちを、自分でちゃんとうけとめる。

その失敗して「あちゃー」と思ってる自分こそが、ありのままの自分であって、それを「こんなの自分じゃないやい」とか思うとか、「痛みは感じないように、やりすごしてしまおう。そのうち忘れるさ。」とかやってると、実は逆にどんどんストレスはたまる一方なんですね。

なんでか?

当たり前の話で、同じ失敗や嫌なこととかがやってきた時に「耐える力」が身に付いてないからなんですね。
だから「また同じような痛みがやってきたらどうしよう」と思うと不安でしょうがなくなる。また目をつぶってやりすごすしかないってことになる。「嫌だなぁ」と思う。だから将来が全部、「不安」になっちゃうわけですね。

こういう構造だか ら、逃げれば逃げるほど、人生が辛くなる。

何も知らない子供の時は何の重荷もないわけですよ。でも、そのうち成人すると責任とかなんとか、そういうものが目の前に表れて「引き受けてちょうだい」って挨拶してくる。

で、これから「逃げて」しまうと、もうずーっとそれが重荷になるわけです。どうしていいのかわからない。パニックになる。

で、「逃げる」対象を増やせば増やすほど、人生はつまらなく、苦しいものになって行きますね。

でも、責任を引き受け、痛みを味わうようにするとどうなるかというと、「まぁ、この程度の痛みなら、なんとかなるか」というように「痛み」に慣れていくんですね。

たぶん、筋肉を鍛えるのと同じようなことなんだと思う。精神を鍛えるには、責任を引き受け、� �みをキチンと味わって行くことが必要なんだろうな、と思うのです。

で、その痛みを耐えて引き受けていくために、最良の友である「自分」と仲良くやっていく必要があるわけですね。自分と友達になる、ということは、この痛みに耐えるためにこそ、必要なことなわけです。

で、話は依存症のことにまたなってしまうんですが、この引き受けるべき痛みを引き受けずにいると、どうなるかというと、不安でたまらないので、何かに依存するしかなくなるわけです。

たとえば、うちの父の場合でいうと、母親に捨てられたという事実があったわけです。まぁ致し方ない事情だったんだし、仕方ないよな、と、ありのままの自分の運命を受け入れて、つまり「痛みを引き受けて」いれば、それが大きな糧になったはずなんです が、そのありのままの痛みをちゃんと引き受けることができなかったので、たぶん「なんで俺だけ、こんなに不幸なんだ!」と、ありのままの現実を受け入れるのを拒否したんだと思うんですね。

ようは「否認」です。

で、この「否認」をすると、自分の感情と事実とのズレ、ギャップが生じますから、いろいろと精神的に不安にならざるを得ません。なので、痛みを引き受けなかった弱さを、何か別の対象で紛らわせる必要が出てくるのですね。
それがギャンブル依存症とかアルコール依存症とか子供への依存「共依存」だったりするわけです。

もう、このへんは、すごくはっきりしてると思う。逃げるから依存対象が必要なんだよな。
逃げずに引き受けたら、自分でまかなうしかないから、自分と仲良くなって、 全力で立ち向かうしかなくなるのだ。

昔、太極拳を習ったことがあって、初日、立禅と言って、膝を曲げて少し体に負荷をかける立ち方を習ったのだけれど、これが想像以上に体力を使っていて、一時間の間、基本は立禅のポーズを維持しながら練習するので、次の日は足が痛くてパンパンになってしまったのですね。

でも、そんなの一日目だけなんだよ。あとはもう全然痛くない。ちょっと膝を曲げて立つ程度のことだから、たかが知れている。

ほんと、最初だけなんだよなー、痛いのは。

だから痛みと成長はワンセットなんだとつくづく思う。

心の強さも体の強さも同じ事です。最初に基礎体力をキチンと養っておくかどうかが、残り人生をイキイキと生きるかどうかを決める重要な分かれ道になるんですよ� �

で、この「痛みに耐えて」得られる力こそ「自尊心」なんです。「私はやれる。」「できる」「私は素晴らしい」っていう、そういう自己肯定力。
それが自尊心。

で、この自尊心が低いと、すぐに精神的に傷つきます。自尊心が低いから傷つくんですけどね。でも、その自分の自尊心の低さは棚にあげて、傷ついたことの責任を、他者になすりつけます。そしてスネます。「私が悪いんじゃないんだ、あいつが私を傷つけたんだ」とカラに閉じこもります。

でも、違う。傷ついたとか言ってるけど、実は「痛み」を引き受けてはいないんですね。痛みを真正面から引き受けて「これは私が引き受けるべきことなんだ、他の誰になすりつけることも出来ないんだ」というようにして、しっかり痛みを味わえば、心が鍛えら� ��て、もっとしなやかに、イキイキと生きられるようになる。それをして「自尊心が高い」と言うわけです。

なのに、それをしないから自尊心が育たない。いつまでも「傷つけられた」という責任転嫁から一歩も外へ出られない。自分で自分と友達になって、避けられない現実を見ないから、現実が全て不安のタネになってしまう。また「痛いことつきつけられたらイヤだなぁ」と思って生きるしかなくなる。

ちゃんと味わえば、そんなものどうってことなくなるのに。

なにやってんの。

ってことです。

ちゃんと痛みを味わいなさいってことです。

太極拳には24のポーズがありまして、(簡化太極拳と言って、一番簡単なもの。)そのポーズがゆっくりと変化していく踊りみたいなものなのですが、そのすべての� ��ーズは「立禅」のバリエーションなんですね。

で、この「立禅」の腰の落とし方で、太極拳の「キツさ」が変わるわけです。低く腰を落とせば落とすほど、きつくて、あんまり低くしちゃダメなんです。初心者は。

で、その初心者の最初の最初に学ばせる部分こそが「立禅」で、だからこれは、もっとも基本のポーズで、これが出来なけりゃ、太極拳を学ぶことそのものが成立しないんですね。

で、半年かけて太極拳の全ポーズを習いに行きましたが、結局足が痛くてたまらなかったのは、本当に初日だけでした。

まぁ、いかに体力がなかったか、ということです。

でも、最初の一日だけなんよね。ほんとに。痛いのは。

このあたりは、痛みを引き受ける、責任を引き受けるというのも、まったく一緒なの� �す。

痛いのは最初だけ。

で、いったん痛みをちゃんと引き受けて、キチンと味わえば、後はそれが基礎力になって、次々と次の「型」を学んでいくことができるのです。

だから痛みから逃げたらダメなんだよなぁ。ほんとにそう思う。

逃げると結局、「酒」「バクチ」「食事」「子供」などなど、いろんなものに依存して生きていくしかなくなるんだから。

拒食症とか過食症も、結局は同じ仕組みだし、児童虐待も同じ仕組み。バクチ狂いもアル中も同じ仕組み。みーーーーんな根っこは同じ。

「自分が引き受けるべき痛みを味わおうとしなかった」

ということです。

で、これを「味わう」という言い方をしてるところを、自尊心の低い人は「勝手な言い分だ。痛いものは痛い」とか「痛いものを� ��くないという言葉のごまかしだ」としか思えないんですね。

そこ。

そここそが、人生をバカにしてる、ダメなとらえ方なんだよなぁ。

進んで痛みを味わって行った時こそ、大いなる気付きが、それこそ山のようにやってくるのです。たくさんの幸せのタネを獲得することができる。立禅をやっただけで、24パターンの型の受け入れ体制が整うのと同じ、「すごいこと」が人生に起きるんです。

それは本当に自分でも「奇跡」みたいにしか思えないことも、あるでしょう。とにかくすごい気付きが次々に生まれるのですよ。ものすごい幸せが、次々にやってくる。

でもそれは、痛みを引き受けて、「立禅」ができる心の体力、「自尊心」が身に付いてないと、受け取ること自体ができない種類のものなんですね。

ほんと、最初に痛みを味わおうと覚悟しない限り、それは受け取れない。

そういう種類の出来事が、この世にはあふれてるのですよ。ものすごい量で。

その最初の扉を開くのが「痛みを引き受ける」なんだけどねぇ。これを避ける人が多い。

もったいない。

ほんとうにそう思う。

ま。そういうことで。

自分と友達になろう。

このあいだから、親がどうとかけっこう書いて来たわけですが、実は「親に感謝せよ」だとか、「親を許せ」とか言うことに関してピンと来ない人なのです。

「そんなこと、別にする必要ないやろ」って思う。

何故かと言えば、親を喜ばせるために、自分が何をすればいいのかを考えれば、それが一番の感謝であり、許しになるわけだからなのですね。

で、� ��ぁ基本の基本は、自分が自分らしくイキイキと生きていることが、一番親を喜ばせます。

これが基本でしょう。
百の言葉より、一の行動。有言実行。ようは、「やること」です。

自分の両親のことを思い起こしても、まぁ僕が自分らしく精一杯仕事をしてる話だとか、活躍してるんだぜー、といった話をしてやった時の顔が一番ニコニコしてたように思いますからな。

もう、これは大前提で、言葉より実行ですよ。まず自分が自分らしくイキイキと生きることです。
何よりそれが優先する。

だから「親を許す」とか「親に感謝を」とかを、口に出す、言わなければいけない状態自体が問題なわけです。そういう状態自体が、もともと自分らしく生きていない、「よろしくない」状態なわけです。

もうひと� �言うなら、子供がイキイキと自分らしく生きているのに、「そんなことしたらアカンよ」とどーたらこーたら言う親は、ちょっと問題ってことでもあります。

自分がイキイキと楽しく生きているのに、自分の親がそういう状態になって色々言って来たら、ちょっと気を配ってやって、「何か不満はないか?」「嫌なことでもあったのか?」と聞いてやらねばなりません。

「自分のことがうまく行ってない」時に、人は自分以外の人間にごちゃごちゃ言うことが多いわけですから。

このあたりの正しい判定ができるかどうかは、実はひとえに「自分がイキイキと生きているかどうか」という、自分を大切に思う心、「自尊心のエネルギー量」に関わってきます。

「私はイキイキと生きているんだ」
「幸せで幸せでたま らない」
「生まれてきたことがうれしくて仕方ない」

というような絶対的な確信こそが自尊心であり、「正常」な状態なわけですよ。安定していて、自律していて、自分自身と自分との関係が、良好で、その自分との関係が良好であることの余力で、他者との関係をまかなうことができる状態。これが「まとも」なわけです。

ここがまず基準なんだと思うのよなぁ。

たぶん、これ以外に基準はあり得ないはずです。

まず、ひとりひとりが自分を基準に自分を大切にして生きている状態。これが標準ですね。
これが保たれなくなっているなら、それはちょっと、心の状態を整えなおさないとやばいと思うわけです。

たとえば看病疲れだとか、子育てで寝不足になって自分を省みる時間がなくなってとか、そう� ��う状態になったのなら、誰か知り合いの力を借りてでも、自分の時間をキチンと確保して、自分らしさを失わないように、自分に優しくしないとダメだと思うのですね。

そうでないと、回りが迷惑するはずです。自分で自分の面倒を見れない大人がひとりでも出ると、ほんとに回りは大変ってことになりますから。

これは別に身体状況が良いとか悪いとかに関わらず、でしょう。精神状態が良くない場合もまずいと思われますね。やっぱりね、だから親の心得として、「子供より自分優先」というのは常に自戒しておくべきことなんじゃないかなぁって思います。

まず自足でしょう。自分が満ち足りた状態であること。幸せであること。で、自分以外の人とは、その「自足」から「あふれ出た」部分で対応すること、では� �いですかね。

これは仕事でだって同じだしなぁ。まず自分を満足させて、その余力で相手と対応するんだと思います。自分に知識の不足や情報のカケとかがあると、ダメなんですよね。とにかくまず自分にとって必要な情報と、自分が果たすべき責任とは何かを考えて、それはまず必達事項として「満たす」。で、他者との関係はそれを終えてから、なんだと思うのですよ。

そういう状態なら、ゆとりがあってオーケーになることが多い。相手も安心して話しを聞いてくださるし、こっちも自信を持って話しができる。

子供と接する時も同じでしょう。自分が自分らしくイキイキと生きてる親をこそ、子供はうれしいと思うはずです。
だから「まず自分優先」が大基本だと思いますね。

そこがゆらいでいるのは、マ ズいと思う。

いまさっき、ネットで色々検索してたら、以下のような文章が出てきて、「ああ、これはいいなぁ」と思ったので、勝手に転載・張りつけしてしまいます。

だれもに良いことは転載したって、まぁええじゃろ。

転載開始--------------------------

自分の1番いい友達になってやろう。
自分を好きになれば、みんなのことも好きになれる。
自分の1番の友達になれば、みんなとも友達になれる。

そのままのあなたも悪くない。あなたはあなた、それでいい。
あなたと同じ人はどこにもいない。世界中にたった一人しかあなたはいない。それはすごくすてきなことなんだ。ひとりひとり、みんなと違ってる。不思議だけどおもしろい。

あなたが幸せな気分でいれば、もっと大きな幸せがやってくる。
すてきなことを考えていれば、人生はもっともっとすてきになる。
あなたが自分を大切にして、自分のいい友達でいれば、みんなが
あなたを大切にしてくれる。みんながあなたのすてきな友達になる。
あなたが自分を好きになれば、みんながあなたを好きになる。あなたが自分を大切にしていれば、みんなも、自分を大切にしようかなって思うかもしれない。

そのままのあなたがいい。だれかのまねをすることなんてない。
だれかと同じように笑ったり、話したりしなくったっていい。みんなと同じような格好をしなくったっていい。
あなたはあなた、それでいい。

泣けること、悲しくなること、恐いって言えること、傷ついたって言えること、好きだよって言えること、みんなすてきなことだよね。

� ��人も子供も、男も女も、みんな人間なんだ。強かったり、弱かったり、悲しかったり、うれしかったり、いろんな気持ちを持っている。

人間ってほんとにいい。

転載おわり---------------------------------------

なんかね、
『自分を好きになる本』パット・パルマー著 epPress訳(径書房)

という本からの書き写しだそうです。

いいなぁ、これ。
これが基本だよなぁ。
絶対。

で、これに付け加えるなら、「自分を好きになるために、自分の責任からだけは逃げてはいけない」って一文を付け加えます。

何か「嫌なこと」が目の前に現れたとしても、それは自分の不徳のいたすところなのですよ。だからそれは進んで受け入れたほうが、まぁたいていはうまく行く。

嫌だなぁと思うような事こそ、「� �分の責任なのだ」と進んで引き受けて、その「嫌な感じ」を、たっぷり、じっくりと味わうことだと思うのです。

これこそ、実は「自分を大切にして生きている」ことなんですよねぇ。つくづくそう思うのだ。

ここで「自分の責任」を受け入れられないっていうのはまずいんですよね。これを避けてはいけない。
そこは自分が自分と友達になって「おお、なんか大変そうやけど、お前ならやれるよな。」「んー、そうやなぁ、ちょっと大変そうやけど頑張ってみよか。」「おう、その意気、その意気。がんばれ!」と、自分で自分に言うわけで。

これが、ものすごく大切だと思うんだけどねぇ。

で、これさえ出来てりゃ、人生の大半のことは何とかなると思うけど、どうだろう? 違う?
評価:★★★★★



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